続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

お話会

朝から雷雨。身を寄せ合いたいくらいの大きな雷がドカン、ドカンと何度か落ちた。市内のあちこちで停電していたり、踏切が開かなくなったりしている。さっき車で通りがかった信号機も停電していて、警察や電力会社の作業車が道のあちこちにいた。

家の中はシェルターみたい。

今も窓ガラスが白くなるほどの大雨が降り込めていて、音もすごいけれど、雨がひどくなるほど家の中はしんとして感じられる。

今日はヨガも諦めて、家の片付けをしながら大人しく過ごそう。

 

昨日、娘氏と鵠沼海岸の某所のお話会に参加してきた。

スピーカーは、オーストラリア在住の日本人女性。その人は、特に公の人とかではなく、主催者の友人の娘さんで、子供と一緒に一時帰国している。

いわゆる日本の学校教育の「普通のレール」には乗らずに生きてきた彼女に、自身のライフストーリーをざっくばらんに紹介してもらいつつ、双方向で参加者の疑問質問に答えてもらうというゆるく小さな集まりであった。

娘氏にとって何か良い刺激があるといいな〜くらいの軽いノリで参加したのだけど、行けて良かった。

娘氏は会の後に差し向かいでたくさん話を聞いてもらって「元気でたー」とはにかんだ笑顔だった。私も、いろんな大事なことを思い出させてもらったような気持ち。

小さく閉じて暮らしていると、だんだん見えなく、感じられなくなるものがある。

だから時々は、自分の身体を動かして表に出て、こういう外からの爽やかな風を自分の中に入れるようにしてあげないと。

それは芸術でもいいし、誰かとの対話でもいいし、自然でもいいと思う。

意識的に、定期的に、自分の淀みを流すことをしてあげることも、自分をケアする大事な人生のコツの一つ。

 

話の内容も素晴らしかったのだけど、何より印象深かったのは、その人が温泉に入って上がってきたばかりみたいなすっきりとした表情をしていて、時折大きな口を開けて、鼻にしわを寄せて快活に笑う、そのてらいのない笑顔のきれいさ。

彼女を見ていると、ただ心地良く、明るい広々とした気持ちになれた。

不本意さが全然感じられない、無理にポジティブに受け入れようとしている頑張り感もない、自分を大きく良く見せることもない。

彼女の「素」の佇まいは、美味しい、柔らかいミネラルウォーターみたいだった。

そういう人が語る考えや思いは、初めて聞く考えや言葉じゃなくても、確かな真実味と説得力を持つ新鮮な言葉として胸に響く。

 

こういう、太い芯を感じさせながらも心地良く緩んでリラックスしている人って、昨今、珍しいよなと思う。

頑張り屋さんで無理をしていたり、傷つくのを恐れて閉じていたり、多忙すぎて感性が鈍って何も気づかなくなっていたり、硬い殻で身を守っていて近寄り難かったり、向上心で自分を鼓舞して妙にテンションが高い人とかはたくさん見かける。

生き難いハードな世界を、皆それぞれの力みやトゲでもって防御しながら一所懸命生きている。その歪みが人間だし愛おしいものだと思うし、それらに配慮しながら人と接することにすっかり慣れている。

けれど、その思慮深さはちょっと悲しいものなのかもしれないとふと思わされる。

それだけ、今いる世界が、ほげーと無防備ではいられないしんどい世の中なんだということなのだろうから。

彼女の暮らすメルボルンは、きっとイージーでいい所なんだろうな、と笑顔で思う。

 

 

昨日の覚え書き。

*どこも住めば都だしそれぞれの良さがあるが、合う合わないはあって、合わない所で無理に自分を合わせようと頑張ることは、その労力と時間と苦しみは、結構無駄かもしれない。

*日本には「石の上にも三年」「置かれた場所で咲く」「ここを投げ出したら次も同じ事になる」と、不本意だったり苦痛だったりすることの原因をその人自身の内面の問題とし、そこから逃げて別の道を探すことを禁じるような価値観があるが、それは一つの考え方でしかない。

*オーストラリアでは「あなたに合う場所は必ず見つかる。一つ二つ合わなくても諦めないで、合う場所が見つかるまで動いで探せばいいじゃない」という考え方が一般的。

子供の合う学校を探して引っ越しするような家庭は珍しくないし、悩んでしまうくらい学校も多様だし、学校に行かない子も普通にたくさんいる。

以前勤めていた職場の壁には「ここが合わなければ、無理せずすぐに飛び立てばいい。あなたは木じゃなく、動ける足がついてるのだから!」と書いてあった。

 

*「自分にとって合う、好きなことをする」ということに素直に従っていれば、そこで気の合う人、自分にとって良い人に巡り会う率は高まるし、自分の好きなことを深める情報にも出会えるという好循環が生まれる。

合わない、気の進まないことをしていれば、合わない人と出会い、気の進まない情報しか入ってこない。当たり前のこと。

だから、幸せに生きるためには、自分にとって合う、好きなことをすることだと思う。

 

デンマークの学校では、どんな発言をしても教師に「間違っている」と却下されることがほとんどなかった。「こういう方向から見れば、確かにそうとも言えるよね」と、多様な見方をテーブルに出し合う感じ。

本の学校では、先生だけが正しい答え、それもごく小さく限定されたたった一つの答えを握っていて、それを子供がguessして当てっこしていく。「自分はこう考える」ということは脇に置いて、ひたすら先生の考えをguessし続ける。

 

*社会や企業の側から「こういう人材が欲しい」という要請があって、それに従って教科が生まれ、学部が出来て、それに適した人材が学校で育成されたのちに社会に送られる、というのが、日本を含む多くの国における学校のありよう。

しかしデンマークでは「私たちは社会のために存在するのではない。私たちが学びたいことを学べる社会にしたい」という考え方で、教育を受けることは個人の権利という考え方が定着している。

 

*日本の学校教育は、幼稚園までと、大学以降はある程度の多様性が担保されているが、小中高の教育の選択肢がほとんどない。それは、全員が一種類の靴を履くように強制されているようなもの。

靴が悪いのではなく、靴が一種類しかないということが問題。その靴が合う人はいいと思うが、合わない人がいるのは、ごく当たり前のこと。

*靴が合わなくて足が痛かったり、怪我をするのなら、その靴を脱げばいい。小中高というnarrowな道を無理に通過しようとするのではなく、大検を受けて大学から好きな学びを得ることも出来る。

実は大学の自己推薦の門戸は広く、学力にそれほど囚われなくても、人と違う独自の経験を積んでいる子はかなり有利。

 

*自分は、早い段階で学校に通うことを放棄したので、社会のどこにも所属感を得られない状態に置かれた。普通日本では、切れ目なく何らかの肩書きを持つ。「〇〇中学の」「〇〇高校の」「〇〇大学の」「株式会社〇〇 〇〇部の」その時々の所属する組織に自分をアイデンティファイさせていく。

でも私はそれが出来なかったから「私は私」「私がこうしたいからこうする」「私がいやだからこれを選ばない」、そう言い聞かせながら何年もかけてアイデンティティを自分自身に持つということを獲得していった。

日本人の大多数は、舗装された道を進んで学歴キャリアを獲得していく。私は獣道を鉈でバッサバッサやりながら自分で切り開いていった。のろくて遠回りだったかもしれないし、苦しい道だったけど、今では何があってもそう簡単に揺るがないから良かったと思っている。

 

*自分の人生、大事でしょう。誰にとっても一回しかないでしょう。だったら、死に物狂いで幸せになることを求めていけばいいじゃない?と思う。

*違和感、辛さを感じられる感性は大事で、そんな風に感じる自分を責めるんじゃなくて、そう感じさせてくれて、間違ってるよと身体が教えてくれてありがとうってことなんだと思う。センサーが正しく働いているということなんだから。

 

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自分に合わないことに深入りしないこと。

好きで無理なく続けられることをしていくこと。

忙しくなりすぎず、感性を生き生きとさせて体が教えてくれる感覚に逆らわないこと。

 

今日から心がけていこうと思った次第。

 

雨が止んで、蝉が鳴いている。

これから髪を切りに行ってさっぱりしてくる。