続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

中道右派さんへの返信①

先日書いたブログのコメントに反論をいただいた。(明日は参院選 - 続・みずうみ

意見が異なる方からの指摘はとても刺激になる。反省もし、新たな視点で考えるきっかけももらえて、とても嬉しい。ちっとも不躾なんかじゃないです。

いつもと同じようにとりとめなく書くことしかできないけれど、いただいたご意見を受けて感じた正直な思いを書き出してみます。

 

中道右派さんの言葉を読んでまず感じたことは、この方と自分とは現実認識がかなり異なるにも関わらず、共通する問いや願いを持っている、ということだった。

同じと思ってもらっちゃ困ると不快に思われたらごめんなさい。でも私は素直に共感したのです。

「殺人なんて本当の幸せをむしろ破壊するものだろうに。そういう心の動きにどうしてなってしまうのだろうか、そうならないように私は何が出来るんだろうか」

ある物事が引き起こされた時に、その背後にどういう心の動きがあったのかを想像することは、一番大事に考えなければならないことの一つだと私もいつも思っている。

 

しかし中道右派さんは、今回のことが引き起こされた要因が「安倍さんが憎しみの対象になるように印象操作するマスコミや野党」にあると書かれている。

私は、この点については違う考え。

まず事実関係としては、犯人本人の供述から、犯行の動機が「統一教会に対する恨み」であることが明らかになっている。だから、少なくとも山上容疑者に関しては、マスコミや野党の印象操作によって安倍氏を憎むに至ったわけではないということは言えると思う。

捜査関係者によると、山上容疑者は「母親が団体に多額の献金をして破産した。家庭を崩壊させた団体に恨みがあった」と説明。「団体を日本に入れたのは岸氏。孫の安倍氏も国内で広めたと思い込んで狙うようになった」と供述しているという。岸氏は安倍氏の母方の祖父にあたり、1987年に死去している。

 

でも、「統一教会が憎かった」というのは、この事件のほんの一部を説明しているに過ぎないとも思う。

山上容疑者は、安倍氏を殺しても人生における問題はひとつも解決も改善もしないのに、「本当の幸せをむしろ破壊するものなのに」、このような破滅的な行動に走った。

あくまで私の考えだけれど、人がこのような無謀で自暴自棄な凶行に走るには、前提としてもう理性的にものを考えられなくなるくらい、めちゃくちゃお金がなくて生活も困窮していて、誰に助けを求めても助けてもらえなくて、誰にもまともに話を聞いてくれないという希望のない状況に追い込まれてしまっているということが、要因の中にきっとあると思う。

誰かに強い憎しみがあったとしても、とりわけ身近な人でなく遠い存在への憎しみである場合には、食べるに困らない経済的不安の少ない生活と、事情を聞いて同情を寄せ、共に対処を考えてくれる誰かが一人でもいれば、そこまでの自暴自棄な行動に走るリスクはかなり減るのではないかと想像する。

 

けれど、「自助共助」そして「家族は助け合わねばならない」という考えを基本とする今の日本社会においては、お金がなくて困った人が福祉を受けることは、とてもハードルが高いものになっている。

今の日本の福祉は、カルト宗教にお金を根こそぎ巻き上げられ、マインドコントロールされているので家族間でまともな話し合いもできない山上容疑者のような家族を持つ人を実際的に救い出す有効なシステムをほぼ持っていないに等しい状況にあると思う。

「福祉はある」とおそらく国は言うのだが、実際には困った人が福祉を受けるためには高い申請スキルや交渉能力、必要条件を全て満たすなどが必要とされ、辿り着けずに諦めてしまう人は相当数いると思う。

というか、国はそれを望んで意図的に福祉を利用しづらくしているとしか思えない。

そうでなければ毎年何万人もの人が経済で困窮して自殺するような事態が続いているはずがない。

あまつさえ生活保護などでは受給を諦めさせるための水際作戦みたいなことさえ横行している。法律に詳しい人、外部に公表する構えを持った人、権力を持つ人、団体交渉する準備がある人などが帯同していればだいぶ違うようだが、一人で無知で無力な個人が必要な福祉を受けたくて交渉しても、幾つもの壁に阻まれてなかなか福祉を受けることができない現状が周知の状況で、一体誰がセーフティネットと思えるものか、と思う。

この記事には、国が職員の削減と非正規化を進め、1人のケースワーカーが100人以上を担当しているために、物理的に対応が不可能な状態が生まれているという問題も指摘されている。

 

私は理由の全てではないにせよ、山上容疑者が今の与党政治の作った「困窮した人が福祉で助かるのがとても難しい社会」に追い詰められていた、希望の見出せない状況にあったことと、今回の犯行は切り離せないことだと思っている。

その上で、中道右派さんのこの言葉は、山上容疑者に向けられた言葉としても、私自身に向けられた言葉としても、本当にその通りだと思う。「安倍さんを憎悪しても、世の中は良くならないし、憎悪している人の本当に求めているだろうものに近づく行為でもないだろうと思います。」

私は安倍さんを支持するだれかを個人攻撃したり、「死ね」などの暴言を発信したことはもちろんない。

彼に限らず、政治を語る時にはできるだけその所業を冷静に批判しようと自分なりに心がけてきたつもりだけれど、人格攻撃が一切なかったという自信は全然ない。相当な自覚と自制がない限り、正当な批判と個人への軽蔑や忌避の感情の境界線は曖昧なものになると思う。

私は正直、安倍さんのことを人として嫌だなあと思ってきた。ここ数年はテレビや画像で顔を見るのもしんどかった。

でも、この国の権力者としての行いと、個人としての存在はもっと切り離して考えるべきだったと思う。自分が未熟で、相当ごっちゃになっていた。そのことを反省しなければならないと思っている。

 

私が求めることも、中道右派さんと同じ「平和な心で生きていたい」ということ。だったら誰かを憎むことで平和に向かうことがないというのは、本当にその通りだと改めて気づかされた思い。

ただ、平和な心で生きるには、弱肉強食とか自己責任とかではない弱いものへの優しさや、いろんな「違う」を受け入れる寛容や、貧富の差が大きすぎない一定の平等性が社会に必要だというのが私の考えなので、今の社会の全ての責任が安倍さんや今の政権にあるのではないにせよ、「今の与党や維新のスタンスが優しさや寛容さや平等性からは大きくかけ離れている」という部分に関して、自分の認識は変わらない。

個人攻撃ではなく、弱者に対する冷たさや、差別や非寛容さや、権力者や富裕層への優遇といった、与党権力側の行いに対しては、一人ひとりが違和感を表明することや、批判の声を上げていくことはめちゃくちゃ大事だと思っている。

 

続く