続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

みんなと一緒がいい

参院選を前に、どうして自分の暮らしている国が今こういうことになっているのか、どうして私が投票した人はいつも大抵落選し、多数派と自分が考えが合わぬのはなぜかということを、ちょっとつらつらと考えてみたい。

私にしてみりゃ、どーしてこれほど不正や改ざんや隠蔽を多発し、差別に寛容で、家父長的な価値観を押し出し、貧富の差を拡大させて大多数の国民を貧しくし、アンフェアで馬鹿げた税金の使い方をする与党と政府に皆怒らないのか、あるいはあくまで政治への無関心を貫き続けるのか、と素朴に不思議に思ってしまう。

 

マスコミが政府や大企業にコントロールされ、忖度しているために知るべき重要なニュースを知らされていないからという意見はよく聞くし、確かにその影響は大きいと思う。

他にも、権力構造や政治的駆け引きやアメリカの存在など、外的な要因はもちろん色々あるんだと思う。

けれど、今回コロナ禍の、この国の人たちの感染対策やワクチンやマスクに対する対応を見て考えを垣間見て、色々興味深く思うことがあって。

人々が内面化している意識と、それがどのような行動を引き起こしているのかという観点から考えてみたい気分になっている。

 

またまた内田先生を引用して恐縮だが、しばらく前にどうして「このままでは野党は歴史的大敗を喫する」のか、その理由についてこんな言及があった。

このままでは野党は歴史的大敗を喫する。(中略)その大きな理由は「このままでは野党は大敗する」という見通しが有権者の間に広く共有されているからだというのが僕の考えです。

日本の有権者もメディアも政治学者も「適切な公約を掲げる政党が選挙に勝つ」という推論をしますが、これは端的に嘘です。

話は逆で、日本人は「選挙に勝った政党の公約は事後的に適切と認定される」というふうに推論しているのです。

ですから、「私は正しい投票行動をした」と思いたい有権者は「どの公約が適切か?」ではなく「どの政党が勝ちそうか?」を予想するようになる。そして「勝ちそうな政党に投票すること」と「政治的に適切にふるまうこと」の違いが分からなくなる。ロシアも中国もまあ同じなんですけどね。(2022/6/3 内田樹Twitterより引用)

つまり、ある政党が支持に値する公約を示したゆえに勝つのではなく、「勝てば官軍」戦いに勝った方が内容はなんであれ正しく、負けた側は間違っていたとする考え方。

そして「私はやっぱり正しかった」と思いたい心から内容ではなく「勝ちそうな党」を予測してそこに票を投じるという行動をするという。

 

そういえば以前、社会福祉学者の竹端寛さんがラジオの対談でこんな話をしていた。

教えている大学の学生に選挙に行かない理由を尋ねたら、「自分には当選する人を選ぶ自信がないから選挙に行かない」と言うんですよ。選挙は遠く離れたところで誰か賢い人が正解を知ってやっているはずやと思っている。

要は何か「絶対的な」正しさがあって、「科学的に」判断できるだけの情報をもちあわせていないから、自分には判断ができないと言っちゃうんよね。

どんなトピックでもそう。フェミニズムでも差別でも。

「私は全然勉強してないから発言権がありません」と言う。

一体誰にそんなこと言われたん?という話でね。

これって同じ話だなと思う。

 

「どんな世界がいい?完璧に一致する人でなくても、自分がいいなと思う世界を後押ししてくれそうな人の方に票を託そう」というシンプルな話が、どうして「私は正しかった」を証明するための行動になってしまうのか?

それは選挙における「私は正しかった」が「私は大多数のみんなと一緒である」ということと重なるためなんだということにコロナ禍を通じて気付かされた。

この国に生きる少なからぬ人たちにおいて「自分がいつも多数派の側にある」ということが無条件の心理的安心と直結しているということを、私はこの年になるまで本当には理解できないで生きてきたのだ。

 

学校での一番古い記憶の一つが、小学2年の算数の時間。分数の入門編だった。「ケーキ1/2個と1/3個、大きいのはどっち?」と先生。「1/2だと思うひとー」と言った時、私は手を挙げた。見回したら他には誰もあげてなかった。いや、でもさっきの説明からしたらどう考えても1/2が大きいし、と思って黙って垂直に手を上げ続けていると、やがてばかにしたようなくすくす笑いが起こった。

それで先生が「1/3だと思うひとー」と言うと、私以外の全員の手が素早くざっと上がった。あの時のクラスメイトの得意そうな、堂々とした顔。どこか敵意のある空気感。

それをぽかーんと眺めていた自分。

三つ子の魂百までというか、その頃から基本的に空気が読めない子供だったのだ。なんの工夫もひねりもない。この先の集団における自分のありようを暗示しているようで、思い出すとちょっとしょんぼりする。

 

コロナワクチンに関して、実家の家族や妹には「いちおこんな情報も見てみては」と自分なりにリスクも伝えた時に、軽くスルーで、妹は10代の姪っ子にも打たせたし、母は毎回副作用があっても3たび打ち続けて、へーそっかあと思っていた。

でもよくよく話を聞いていると「周りの人たちと同じ選択をしていること」が何より安心、それにあえて逆らうのは心理的に不安で耐えられないんだということがなんとなく理解できた。

その時々の「体制」に無駄に逆らわず、その信用が揺らぐようなことをあえて知ろうとはしないし、何かこうむってもその時はその時で仕方ないのだし、第一こうむる確率は低いからまあ大丈夫と考える。

みんなと同じ行動をしておけば、いつも堂々としていられるし葛藤もない。自分は正しい選択をしたと思える。

後ろめたさや居心地の悪さは感じたくないし、その無駄なファイティングスピリットめんどくさくない?と考える。

母や妹のそういうスタンスを間近で見ていて、自分は彼らと全然前提が違うんだなーと実感した。

自分は、あたかも常に向かい風の中に立ってるのがデフォルトで、それに慣れすぎていて向かい風に無自覚になってるレベルなのだわ、と改めて気付かされた。

そんな「無駄」なエネルギー使わずに生きてる人もたくさんいるのだな。なるほど。

なんでも一つひとつ考えて悩んで選んで、そういう風にしてしか前に進めない。だってそうしないと後悔するじゃないか、と思うのだけど、そんな風に考える人は、多分少数派なのだ。遅すぎだがようやく腑に落ちる。

 

正しい間違ってるとか、良いとか悪いとかを超えて、「みんなと一緒がいい」という力が、今のこの国の状況を作っている一つのファクターなのだろう。

常にどこが多数派かを見極めて、けしてポツネンとならないように、身の振り方を決める。

私は、ポツネンにあまりに慣れた人生だから、絶対にそれだけは嫌だという人の気持ちについてあんまり深く考えたことがなかった。

 

でも、だからって選挙で「与党になりそうだから」与党に入れるというのは、やっぱり倒錯しているんじゃないかな。その倒錯はどうしたら打破できるんだろう。

 

もうちょっと続く。