続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

前提を疑い、吟味する力

最近の娘氏は、遅れたり、行ったり行かなかったりしながらマイペースに高校生を続けている。

気分や体調の波に翻弄されながらも、学校が彼女にとって何かを押し付けない安全な場所であることをありがたく思う。ベストな環境ではないかもしれないが、新しい風が彼女の中に吹き込み始めているのが感じられる。学校での話をいつも楽しみに聞いている。

 

色々文句は言うが、言うほど学校が嫌そうに見えないのは、全てにおいてみんなと「同じであること」を求められないこと、特定の思想やルールを学校から強要されないこと、そして彼女自身にある程度しっかりとクリティカルシンキングが身についているからなんだろうと見ていて感じる。

娘氏の高校では、各種プロジェクト・語学・プログラミング・対話の授業は対面、通信制の枠組みの授業はオンライン授業になる。

今、娘氏は、このオンラインの授業を担当する先生および一部教科書の内容がどうも気に食わないようである。

オンラインで教えてくれる先生たちが「強みや武器を身につけてこの社会の競争に勝つ、勝ち組になる、生き残る」といった思想を、ある種自明のこととして言葉の端々に滲ませながら、それをベースに話を進めてくるのが不快なんだという。

また、ある公害問題や環境問題が、あたかも過去の終わったことのように語られたり、特定の対応部署を設置することであたかも解決済みのように語られていることや、何かを簡単に断定する語り口などに「ちょっと待っておかしい」といちいち立ち止まってしまうのだと。

 

中学校の時、一次関数の説明をしようとした先生に、娘氏は「まず一次関数の一次って何ですか?」と尋ねた。

「そういうところを気にされるお子さんなんです」と、面談の時に先生は困ったように私に告げた。

私だって聞かれても答えられないし、先生がその質問に答えられなかったことをダメだと責めるつもりはないんだけれど、別に普通に向き合ってそのことについてちょっと一緒に考えてみても良かったわけで。

そういう質問をする子供はフィットしない(もちろん言葉にはしないけど)扱いづらい面倒な子なんだと当然のように考える意識が学校にはあるのだと感じた出来事だった。

 

でも、それってそんなに悪いことなんだろうか?私はむしろ面白く頼もしく思った。

娘氏は、相手が教科書であれ教師であれ何であれ、鵜呑みにしない。そもそもの前提から吟味しながら話を聞くくせがついている。

学校の授業に限らず何かを見聞きしている中で一番陥りやすい罠のひとつは、意識的であれ無意識であれ、発話者や著者がある物事をまず当然の前提と言い切り、それをベースに論じていくこと、それによって「論じていること」の是非に気を取られて「前提」自体はつい疑わず鵜呑みにしてしまうことだと思う。

いつも本質から離れない姿勢でいないと、前提自体を疑ったり吟味したりすることは簡単ではないと思う。相手が立場が上だったり、権威を持っていたりするなら尚更のこと。

 

学校は、学校が設定した前提は常に正しいのだし、その前提を疑ってはならないとする。学校が設定したルールの上でのみ考えるようにと常に求める。

そもそもに対して問いを立てることを、とりわけ学校の権威が揺らぐような本質的な問いを非常に好まない。そういう質問をする側が悪いということになる。

そういう抑圧的な中学校の環境を、不登校によって3年間まるっとスルーした結果、娘氏は「意味を問わずただ黙って従う」という多くの中学生が身につける処世術を身につけずに済んだのだと思う。

自分の頭や心で判断せず、権威を前に、心を無にして、ただ従うポーズを見せる。

自ら立ち上がって意見をしたり、行動したりすることは損で無駄なことだ。

自分たちには自力で何かを変える力はない。

それがこの社会における人間関係の基本的な現実認識であり、社会を渡る上での最適解であるという刷り込みを、学校は子供たちに日々念入りに教え込んでいるも同然だ。そう私には感じられる。ペシミスティックにすぎるだろうか?

 

社会学者の友枝敏雄氏による高校生への定点意識調査によると、「校則ルールを守るのは当然だ」と答えた高校生は2001年では68%だったのが、2013年では88%にものぼる。

小学校の子供を持つ知人の話では、学校内でのマスク着用の有無や鼻マスクを、先生より誰より子供同士が事細かにチェックしあい、すぐさま指摘し責め合うのだという。

うちの子供達が小学校の頃、全然車が走っていない車道で、私が横断歩道でないところを横切ろうとしたら、息子氏も娘氏もさも偉そうに「ちゃんと横断歩道を渡らないといけないんだよー」と注意してきて、まあそりゃそうなんだけど、なんだその偉そう感、ともやっとしたものだった。

「マスクしなきゃいけないんだよー」もおんなじノリで繰り広げられているのだろうと想像する。

 

娘氏は、不登校によってこうむったこと、今も困っていることなど色々あって、学校に行かないで良かったとは一概には言えない。けれど、ある種の害を受けることからは免れたと言えるんだろう。

でもそれは、地味に、致命的に大きなことじゃないだろうか。

 

折しも、思想家、武道家内田樹さんがこんなことを書いていた。

今日の朝稽古では「査定されるマインド」に陥らないようにということを繰り返し申し上げました。

現代日本では「一生懸命やる」ということと「一生懸命やっているように見えること」が混同されています。

「現に何をしているか」より「何をしていると査定されるか」が優先的に配慮されている。
この倒錯が社会の隅々にまで瀰漫しているせいで、稽古においてさえ、技が効いているかどうかを相手に問い合わせて、相手に「そうね~、5段階評価の3.5くらいかな」と査定されるのを受け入れています。あのですね、それを「後手に回る」って言うんですよ。
一度「後手に回った」人間は二度と場を主宰することができません。一度「査定される側」に居着いた人間は二度と「先手を取る」ことができません。それは生きる知恵と力が発動する機会そのものを自分から放棄するということです。
「ほう・れん・そう」とか「ガバナンスの強化」とか言い出してから国力が劇的に低下するようになったのは全国民を「後手に回る」ように訓練したからです。

たしかに統治コストは格安になりましたけれど、新しいものは何も生まれなくなった。

新しいものは場を主宰する人間からしか生まれないからです。

内田樹Twitter 2022/5/31より引用)

 

来週末から近所の映画館でかかる「教育と愛国」、見に行きたいと思っている。