続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「べき」って怖い

SNSの中ではツイッターが好きである。

ツイッターは、他のプラットフォームに比べて、カジュアルな言葉で綴られた本質的な考えに出会えることが多くて面白い。

それから、ツイッターは現実社会のヒエラルキーと連動していない。マイノリティや普段意見を聞くのが難しい立場にある人たちの言葉を見聞きすることができる。

へーと驚く集合知に出会えるし、猫や動物の動画もやっぱり好き。

ただ、荒れた言葉も混在するメディアなので、自分なりに見たくないものをなるべく目に触れないようにする工夫も必要。

それでも、ここで出会える切実で実感に基づいた思いや正直で率直な問いは、自分の思考を刺激してくれていると思う。

基本、読むなら心の入った「本音」を読みたいのだけど、露悪的なものは困る。

もちろん、「あるものはある」のだから、その人にとっての真実を語る中でそこに気まずさや辛辣さが含まれるのは全然構わない。

でも、その人にとっての正義を証明するために他人をこき下ろしたり、責め立てたりすることが、率直さと混同されているように見えることもあり、それは問題だなーと思う。

正義の名の下に他人を裁くことは、とても気持ちが良いことだし、どこからがやりすぎか、境界線が曖昧なので暴走しがち。

節度をもって抑制できるかどうかは、個人の品性にかかっているから、ツイッターランドにおいてはこのバランスが常に難しいのだなあと思う。

 

 

このところ、映画業界におけるハラスメントや待遇改善の問題について個人的に注目し続けていたが、しばらく前から、本筋から離れたところで泥仕合が持ち上がっていて、とても見苦しいし、残念。

当初勇気を出して真実を語った当事者女性たちの「今後新たな加害者、被害者を生み出さないために」という思いからの告発とは全然次元が違う低レベルのやりとりに熱中しているさまにがっくし来ている。

結局、自分の正しさを証明するためになら、本質なんてそっちのけだし、なんなら全部台無しにしても構わないのかな。そう感じてしまうほどのなりふり構わぬ激しさに鼻白む。

 

自分が正しいことを言っているやっていると思うと、どんな無礼なことをしても自分を正当化できてしまう人がいるのだなあと怖く思う。

「正義」って本当にくせものだし、鼻持ちならないものになり得る。

 

ある被害に対して、直接の加害者がおり、その周辺には沈黙していたり、傍観していたりする人がいる。

直接の加害者には、何をおいても被害者に対する責任があるのは当然のこと。

しかし、沈黙者や傍観者を他者が断罪することについては、色々なケースがあるとは思うが、難しい判断になると思わざるを得ない。

断罪しようとする側は、その人が「悪意のあるいは保身のための沈黙者あるいは傍観者である」ことを前提に裁きたいのだろうが、関係性が遠ければ遠いほど、それを他者が見極めることは難しいと思う。

人にはそのように行動するだけの色々な事情や、背景があると思うからだ。それは簡単には他人には推し量れない。

 

自分自身は、黙っているのを良しとしないと思うなら、声をあげればいい。それは違う、と自分の考えを表明すればいい。

でも、自分と同じように同じ熱量で態度表明すべきである、そうでないのは卑怯だし許されないというのは、正義の押し付けであり、暴走だ。

 

レイプカルチャー的なことは、もちろんあると思う。いじめだって同じだ。「加害者を許し甘やかす環境、被害をみすみす受けた被害者側の落ち度を責める風潮」が状況を作ってきたのだと思う。

沈黙者や傍観者にはなんの罪もないとは、思わない。むしろ、キーパーソンは傍観者だとさえ思う。

でも、だからこそ、そこでやるべきは目についた誰かを糾弾して安易に恨みを晴らすことではなく「どうしてこのようなことが起こったのか、どうしてこのような人物が生まれたのか」について語り、考え、問題提起することなんだと思う。

 

日本においては責任は「自分がやったことは自分で始末をつける」という意味だが、英語のresponsibilityは応答性という要素を言葉の中に含んでいる。

私もどちらかというと、公的に大きな影響を持つ傍観者や沈黙者は応答責任をはらすべきなのではないかという考えを持っていたのだけど、今回の泥仕合を見ていて、「違うな」と勉強させてもらった。

 

自分が他人の行動に対して「こうすべき」みたいなことを声高に言っていることを想像すると、恥ずかしくて身が縮む。

誰かに「こうすべき」なんてこと、言えるような立派な人間じゃないよね、と思う。

よく知りもしない人ならなおのことだし、よく知っている人であっても「べき」は相当注意が必要な言葉だ。

 

自分のけちなプライドはわきに置いて、いつも本質から離れないようにしていきたい。