続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

娘氏の学校について思うこと

今日は娘氏は朝から隣市にある有機農園のお手伝いボランティアに行っている。

我が家と同じ不登校の娘さんを持つ知り合いが、昼夜逆転で引きこもった生活をしていた娘氏に「土に触れるととっても良いよ!」と以前から誘ってくれていた。

昨夜はげっそりだったから明日は無理かも〜と先方にこっそり連絡をしておいたが、今朝は早朝からキリッと自分で起きて、自分と末っ子の分までオムライス弁当をこしらえて、張り切って出かけて行った。

よほど自然が恋しいのだろうな。娘氏の高校は、横浜のコンクリートジャングルの中にある。

 

 

昨日の夕方、娘氏の担任の先生と電話で話した。初めて内部職員の方と長く話して、色々腑に落ちたし、考えも少しは整理できた。

今の自分なりの考え。

この学校で決定権を持つ中枢の人々のベースとなる価値観はリバタリアニズムである。共感はできないが、彼らは教育者のフリはしない。良くも悪くも清々しいほどにこの学校はビジネスに振り切っている。

先回、個人的にどうかと思うカリキュラムについて書いた。この学校は、しかし彼らのやり方や思想を、子どもに強制することはない。そこは多分安心していい。

それが、先生と話していて肌感として分かったことのひとつだった。

 

そもそもこの学校における主眼は、通常の教育機関のように、ある教育理念の元に子供たちを教え導くことや、その学校にとって相応しい学習水準の生徒を育成することではない

顧客のニーズに応えた教育商品を差し出し対価を得る。効率的なビジネス。それだけではないとは思うが、まずそれありきなのは明らか。

シニカルに思われるかもしれないが、悪いことだけではないと思ったので、あえて身も蓋もなく書いてみる。

 

既存の学校の枠組みにフィットしない中・高校生。それがこの学校の「顧客層」である。

不登校の背景は人によって様々だが、今の公教育では、不登校生徒や学校のカリキュラムに適応できない子供たちは、一律管理できない手のかかる面倒臭い存在であり、「普通」のレールから落っこちた落ちこぼれである。

現状の学校の問題点や欠落部分を身をもって体現しているとも言える彼らは「学校はこれで良い」と考える人々にとっては、不都合で時に不快な存在でもある。

環境や人に恵まれた個別のケースはあると思うけれど、全体としては、不登校の生徒は、おおむねいない人みたいに扱われ、自己責任自己負担で、公的サポートは薄く、卒業後の受け皿も限定的だ。

家庭が潤沢な資金を持っていれば選択肢は一定広がるが、それでも何の不足もないと言える人は少数派だと思う。

 

同時に、この国の教育行政が戦後一貫して推し進めてきた「画一的なベルトコンベアー的キャリアパス」という教育モデルの機能不全。

バブル崩壊前の1980年代まではともかく、既定ルートに乗っかりさえすれば安泰が保証される一億総中流みたいな社会なんて、もうどこにも存在しない。

変化の兆しはあるものの、現状はいまだ過去のモデルに固執し続けることから抜け出せないでいる。

そんな現実を前に、今のマジョリティの学校に疑問を感じたり意味を見出せない人は今後ますます増えていくだろう。

ゆえに、端的にこの層に向けたビジネスって、ほぼブルーオーシャンなのである。

 

彼らは、確実に勝算の見込みのある分野で合理的にビジネスを展開している。実際、倍々ゲームの勢いである。辞める子たちの歩留まりも含めてそろばんをはじいているんだろうというのも透けて見えるほど、ある意味きっぱりしている。

なんだかなあ〜とはもちろん思う。

学びは商品ではないし、生徒は消費者ではない。私もそう思う。

そして高校はおしなべて中学よりも子供の人権が尊重され、中学校よりも安全な場所だとも思う。

しかし、一旦公教育の規定路線から外れると、通常の受験による進学ルートはほぼ丸ごと断たれてしまい、多額の費用と労力をかけて独自のこだわりの教育機関を選ぶだけの余裕は我が家にはなかった。

今の公立学校に普通に楽しく通えている人を否定したいわけではなくて、公教育の既定路線から降りた娘氏にとって、より苦痛の少ない環境を数少ない選択肢から自分たちなりに探した結果が今の高校ということになる。

 

娘氏の担任の先生と話していて、合わないことや参加したくないことがあることを表明しても、別に誰も怒らないし、困った人にもならないし、何のペナルティもないということに、私は自分でも意外なくらい安堵した。

これまでの学校のロジックは、言い方は丁寧でも「ここにいたければここのルールに従ってください、個別対応はできないし、従えないならここにあなたの居場所はありません」というものだった。

先生も色々考えてくれていたとは思う。でも結局硬直的なトップダウンの組織であり、学校は常に「変わる必要のない場所」だった。

それが私の中で動かしがたい「学校の態度」としてデフォルト化していたので、娘氏の担任の、別に保護者にへり下るとかじゃなく、そもそもそこ別に重要じゃないし、というさっぱりした対応が、まさに目からウロコだったのだ。

担任の先生と、共に娘氏のために協力する者同士としてフラットに会話できてる。「娘氏の抱える不安に具体的に対処し、楽しく通えるようにいかようにも工夫し、変える」という方向性ですっと話がまとまったことは、私には驚きだったし、シンプルに嬉しかった。

どうして中学校の先生とはこういう「普通の対話」ができなかったんだろう、と残念に思う。

 

もちろん、この高校でも基本は現場は中枢(経営陣)に従わざるを得ないとは思う。

ただ、現場で子供達に関わるスタッフの職務は、入学後の子供たちのケアとサポートなので、ビジネスを主目的とする中枢の人々とはまたスタンスが異なる。

そしてこの高校の企業風土として、常にニーズに応じて、または失敗を受けて、どんどん変えていこうということがある。生徒が希望すれば科目や部活、同好会もすぐに増やしたり、あっさりやめたりしている。

一貫した地に足のついたものは希薄だとは思うが、それよりは変えること、現場が自由にやることに寛容な風土であることの方がずっと大切だと感じる。これまでの学校のありようを見ていると。

 

そういう訳で、当分気は抜けないし、今後も色々あると思うが、昨日は話せて良かった。できる限りのことはしながらも、なるようになるしかあるまい。

 

 

あと一点、これは学校に限らず社会全体のことだけど、いまだコロナ対応が一律で強固なことはどうしようもなく、そこは残念。

世間様から後ろ指を指されぬよう従ってもらわないと困る、という社会の圧にはまだまだ問答無用感ある。

今の娘氏のしんどさには、コロナによるものも大きいものがあるので、早いとここのマスク生活、黙食などが終わってくれと願うばかり。