続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

忙しくなくなるために

夏日。いつものビルケンシュトックのサンダルで末っ子と午前中のお散歩に出たものの、暑くて暑くて、ビーサン買って履き替えよう!と思いたち、駅前のモールへ行くも店々はまだ夏仕様になっておらず。

参ったなあ、あちーなあと思いつつ、駅裏の団地の大きめの公園へ。

最近は路地裏探検専門で、公園は久しぶりだったので、嬉しそうに遊ぶ末っ子。でもやっぱり他の子供が大好きで構って欲しくてぐいぐい寄っていくから、めんどくさがられている。

おもちゃも他人のものと自分のものの区別がまだつかない。私は謝りながら後ろをついて歩いていて、大変疲れた。もうちょっと大きくなるまで路地裏で遊ぼうね。

 

末っ子を横目に、図書館から借りてきたこの本を斜め読みしていた。

マキ著/2016年/すばる舎

 

こういう「暮らし方のコツ」や「整理整頓のコツ」みたいな本ってものすごくいっぱい出ているから、図書館で目に入ったものを気軽に借りては、つまみ食いするみたいにちょこっとずつ参考にさせてもらっている。

この本は具体的なテクニックというよりは、主に「どういう心持ちで生きるか。罪悪感や完璧を求める心とどう折り合いをつけるか。優先順位をどう考えるか」という著者の基本思想が語られた本。

何にストレスを感じているのか、何が自分を疲労させるのかということについての考察が等身大で共感できる。

同時に、家事の基本的なことを相当「しない」としたり、究極まで工夫して合理化をしたとしても、「今の時代は誰もがものすごく多忙」がスタンダードなんだなあ〜としみじみと感じる。どうあっても私たちは忙しさから逃れることはできないんだろうか、という気持ちに囚われる。

 

いったい、これだけ科学技術とかAIとかが発達して、ありとあらゆる便利家電やアプリや代行サービスなんかが溢れているのに、私たちは忙しさから全く解放されない。そればかりか、あらゆる世代が更に忙しくなっていっているような気がする。

(うちの子らは当てはまらないが)周囲の子供達も、自分が子供の頃と比べてものすごく忙しそうである。

だからどれだけ文明が発達しようが、私たちがそれによって余暇を得ることはおそらくないんだと断言してもいいんだろうと思う。文明の発達と暮らしのゆとりは無関係どころか、反比例と言えるかもしれない。それは、際限のない謎ループだ。

 

どうしてそんなおかしなことになるんだろうね?と夕飯の時に娘氏に尋ねたら、

「なんでも他人にやってもらうからだろうね」と彼女は答えた。

「自分でなんでも作っている人の方が、むしろゆったり暮らしているように見えない?」

おおう、確かに!と膝を打つ。

楽をするために、自分が他のことをできる時間を得るために、誰かに何かを代わりにやってもらったり作られたものを売ってもらったりしている。

ところがよくよく考えると、長期的に見ればある暮らしの技術を手放すことで他者に依存し、自分の自由と時間を手放すことに繋がっている。

 

「服ってさ、自分で作れたらすごいじゃん」と娘氏は言う。

「私は肩幅が広くて、腕が短くて、背が低い。そんな自分にぴったりのサイズかつ似合うかつお手頃価格の既成品の服ってほとんどなくて、見つけるのは本当に手間暇がかかる。

でも、自分で作れたらサイズがぴったりで、好きな感じのものが一度で手に入るもんね」

確かに、自分の気に入ったワードローブを持つために、私たちはたくさんの時間を費やし、素敵な憧れの服は当然高価で、その服を買うためには長時間働く必要がある。

 

それって、「都市生活」というものの本質をある意味言い当てていると思う。お金次第で何でも買えることもまた自由で楽しいことだけれど、私たちは「百姓」をやめて、果たして本当に豊かになったのか?ということは、一度落ち着いて考える必要があると思う。

 

だから「なんでも作れ、とにかく作れ、下手でも作れ、毎日作れ、何かを見たら『これ自分でも作れないかな』とまず考えてみよ」と言う坂口恭平の言葉は、すごく本質的だし、私たちが自分の人生の時間を我が手に取り戻す秘訣は、合理化などではなくって「なんでも自分でやってみる、作る造る創る」ことにあるのではないかと思った、今日の考え。

できることからちょっとずつ、自分の暮らしの技術を自分の手に取り戻すことを試してみたい。