続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

社会が変わる時②

このところ「深く考えず変わる」ことについてつらつら考えていたのは、今、性暴力に対する告発のムーブメント巻き起こっている映像業界のありようがかつての体罰が横行していた時代の学校のありようと重なって見えているからだ。

 

映像業界に身を置く夫はげんなり顔で「今取り沙汰されているのは、まだまだ全然ザコキャラだよね。もっと大物とかでひどいことやってる人、全然いるよね」と言っている。

「て言うか、みんなじゃん、全部じゃん、みたいな感じだし。あまりにも日常茶飯すぎてどこから話せばって感じだよね」

私も夫を通してこれまでいろんな話や愚痴を聞いてきて、暴力や恫喝やパワハラやブラック労働などなど、普通にヤクザじゃんという感想しか持てない話もあった。

あまりの酷さに助手のなり手が全然いなくなって、現場での暴力やパワハラがだめなことでしょう、という空気に変わって、そこから数年経ってやっと今、被害を声に出せる人が少しずつ出てきたんだな、と思う。

 

今40代の私が十代だった頃に教師の体罰が「普通」だった頃と同じ感じで、近年までの映像業界のセクハラパワハラは「普通」の感覚だったと思う。

だから、今ほとんどの当事者側がステートメントを出せていない。映像業界に身を置くクリエイターや技術者の団体も、配給系も芸能プロダクションも、映画館も、配信系も、映画評論家も、気まずそうに口を濁しているばかりで正面切った言及はほとんど見当たらない。唯一、是枝監督ら数少ない有志の会くらいだ。

そりゃそうだろうなとは思うところもある。「映画という芸術のためには全てを捧げて当然だし、何をやっても許されて当然」という狂った感覚がまかり通っていたので、園子温みたいな性犯罪者レベルでなかったとしても、多かれ少なかれ誰もが心当たりがあるというか、自分に確信が持てない人は多かろうと思う。

暴力は明白だが、怒鳴ったり、説教をしたりのどこまでが教育でどこからがパワハラか、線引きも難しい問題だと思う。

また、直接的な加害者でなくても、おかしいとも特に思わず長年普通に受け入れてきた自分自身に愕然としている人もいるだろうし、声をあげたり助けることなく黙って見ていたうちの夫を含む多くの傍観者も罪の意識を感じていると思う。

誰もが苦い思いを抱えている。正面から糾弾する球を投げたら、支障のある人だらけ。だから、皆黙っている。

目立たないようにじっと首をすくめて、やり過ごそうとしている。

 

ざけんなよ、みんなもっとどんどん騒げ、と思う。

言い訳は多々あろうが、弱い立場の人を踏みつけて良い立場にい続けたという事実を受け止めろ、皆それぞれの立場からちゃんと発言しろと思う。

特に性搾取されたり、性暴力を受けた女性たちは、取り返しがつかないほどに人生を狂わされていて、本当に胸が痛む。

もちろん、一概に全員が一発退場すべきということではないと思う。

けれど、まず、公的な謝罪をしなければ。

そして、何があったかを明らかにせずなし崩しに現状維持されることがあってはいけないと思う。

この業界でそれなりの地位を占めている人が、何も言わずにただ黙って隠れているのは、responsibilityを放棄していると私は思う。

 

そう、当たり前のように体罰が横行していたかつての学校のように、うやむやにしてはいけん。

学校の教師による体罰パワハラは、誰かがきちんと公の場所で謝罪をしたのか?

何が起こっていて、どんな被害があったかを調べてフィードバックしたのか?

被害者にしかるべき償いは行われたのか?

多分、ほぼ何も行われないまま「次の常識」に進んだのだろうと思う。

あたかも元々から全員ちゃんとしてました、というていで。

もちろん、みんなが暴力教師だったはずはなく、良い教師もたくさんおり、個々のレベルでの受け止めは様々だとは思う。でも、大局的にはトップダウンで一斉に変わったのだろうと思う。

 

本質を問わないまま「変わった」ことの弊害を、不登校の娘の親として学校と関わるたびに感じ続けてきた。

教師による支配と抑圧の関係が形を変えて温存されたままであること。学校が軍隊モデルであり続けていること。部活や体育のあり方の問題。体罰は徹底して禁ずるが、言葉や態度の暴力には無自覚な人も少なからずいること。

こうむっているのは子供だけでなく、「上」からの場当たり的で過剰な締め付けによる教師の労働環境の過酷化も、ビジョンなき変化の弊害のように私には感じられる。

 

学校のビジョンなき変化を実感したエピソードがある。

以前、娘氏のことで学年主任と中学校で面談していた時、話の流れで「80年代はどこも校内暴力がひどく、あの頃の教師たちは生活指導で大変でした」みたいなことを学年主任が言ったので、

「どうしてそんなに校内暴力がひどかったのでしょう。そしてどうして今はなくなったのでしょう」とふと私が尋ねると、うーーん、と少し考えてから、

「小学校でしょうね」と彼は言った。

「それまで、幼稚園から小学校に上がった時に、規律の厳しさにギャップがあってついていけない子が出ていたのだけど、小学校低学年の教育方針を「学校は楽しい場所だよ」という意識づけを中心にカリキュラムを緩めて対応したんですね。それが功を奏したんだと思います」

 

全然ピンと来ないと思ったが、私は鈍いので例によってその時は「はあーーそうなんですねー」とぼーっと相槌をうったのだけど、あとで考えたら、「中学校の校内暴力がなくなったは、教師の体罰を禁じたことと対になってるに決まってるじゃろ」と思ったのだった。

もちろん体罰以外にも理由はあるだろうが、教師の体罰による恐怖統治が、子供達の暴力的な反発を招く大きなファクターだったのは、明らかだろうと思う。

けれど、その50代の学年主任は、本当に「うーーーん」と考え、心から小学校がうんたらかんたら、と思っているようだった。

先生個人の資質というよりは、学校という組織のありようが自省を拒否しているのではないかと感じた。

公的な謝罪がなく、検証も反省もうやむやのままに「変わった」ことで、形を変えて暴力やハラスメントは今も学校現場で繰り返されている。

それを証明するのが19万人を超える不登校の子供達の存在だと思う。

 

今うやむやで通したら、映像業界も公立学校と同じことになる。

一部の槍玉に上がった人だけを叩いて、彼らだけが特別な悪人だとして、自らを外部化したら根本解決はない。

加害者たちを鬼才だとか言ってみんなして持ち上げすらしてきたのだし、「仕方ないよね」として見て見ぬ振りを皆がしてきたのだ、という事実に向き合わなければ。

そうしなければ目に見える身体的な暴力は無くなっても、いずれ別の形での暴力がより陰湿な形で駆動するし、個人の連帯は拒まれ、自己責任の論理がより押し付けられるだろう。そして説明責任を果たすことなく、ごまかすことによって内面化された加害者たちの罪の意識は、卑屈さや抑圧された怒りを生むだろう。