続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

社会が変わる時

ばたついたままなだれ込むように4月に入った。

歯と髪をケアしたら、ようやくしゃんとした気持ちになれた。昨日は久々にヨガのクラスにも参加。じっくり体を動かし、汗をたくさんかいて、ライフポイントがだいぶ回復した。セルフケアって大事。

 

ヨガ帰りの足で、カフェで主催している不登校の会の打ち合わせもあった。

今年度もこぢんまりと張り切らず、マイペースに続けて行こうねと確認しあう。

今、わたしが主体的に関わっている唯一の社会活動だ。

どんな分野であれ、社会活動って即時結果が出るものではないし、盛り上がったからやる盛り上がらなければやる価値がないというものでもない。

そして、必要な人に役に立つために存在するものであり、主催側を満足させるためのものではないということは忘れてはならない。やってる人も楽しいのは継続のためには大事なこととは思うけれど。

躍起になってすぐに変えようとか思わずに、言うべきことを言っていく。

目標もなければテーマもなし。

誰も来なけりゃ本でも読んでるさ〜、くらいの気持ちで月イチ開店。

これからもあんまり広げずこつこつと「ただの対話」を続けていきたい。

 

「ただの対話、そんなことに意味があるのか」という問いについて、最近のわたしはこんな風に考えている。

 

いったい、世の中にある社会課題が変わるのは、どういう時なのだろう?

明らかにおかしいよね、ということが公然とまかり通っていて、それを誰も別段おかしいと思っていない段階があって、所詮そんなもんだとか仕方がないとかみんな我慢して黙っている段階があって、一所懸命変えたいと声をあげても、聞き流されたり攻撃されたり、なかなか状況は強固で変えられない。

でもどこかのタイミングで新しい「意識」が目覚める。「いや、それあり得ないっしょ」に一気に反転しはじめる。

そうすると、カードがぱたぱたぱたと一斉に裏返っていくみたいにして、みるみるそれまでの常識がくつがえっていく。

一連のムーブメントのほとぼりが冷めた頃には、皆、以前の自分の言動なんてなかったみたいにして、新しいスタンダードを周知の常識としてやっていく。

物事が変わるって、だいたいこういうプロセスだなーと感じる。

そして、その時の人間の順応性の早さや、ある種の厚顔さってなかなかのものであるなあと感じもする。

 

表向き、ある象徴的な存在や事件が社会問題を一気に牽引していくように見えるのだけど、鍵となるのは、象徴的な存在や事件の「引きの強さ」ではなくって、あくまで個々人の意識の変化である。個々人の意識の変化がまずあって、それにフィットするその時々の出来事が大きく取り沙汰されるという順序なんだと思う。

問題は、さして省みないまま変わるケースがままあるということだ。

今、こういう考えだと攻撃されたり非難されたりするからこういう意見を採っておく、こう対処するという、対処療法的な変わり方。

問題意識を持って、その事象について深く考え、痛みと共に自分の意識をアップデートさせていくプロセスを経ずに、黙ってすっとポジションをずらし、あたかもこれまでもずっとちゃんとしてた人みたいに振る舞うし、自分もそう思い込む。そういう変わり方は、あやうい。

問題の本質を深く考えず、生存戦略としてその時々の多数派につくという振る舞いだけになってしまうと、表面上変わったように見えても、根本的な問題は置き去りになっているからだ。

むしろ、複雑化したりアンダーグラウンド化するという形で、より難しい状況に陥るということが往々にして起こる。

 

深く考えないことの怖さは「検証をしない」ことと「自分たちがどうありたいかという理念やビジョンを持たない」ことにあると思う。

問題の原因や意味を問い、過ちを正面から認めることから逃げ、問題の原因や意味を問う段階をすっ飛ばして、問題の火消しをはかるために「やってる感」で取り繕うようなことをすると、結局バックラッシュが起こるのではないかと思う。

 

だから、冒頭の問いに戻るけれど、各々のフィールドにおける小さな対話を誰もが同時多発的に、雨後の筍のように、てんで勝手にやっていくことには意味があると思う。

科学的に証明されたわけではないようだけど「100匹目の猿」、シンクロニシティ的な考えって、結構ばかにできないとわたしは思っている。

個々人の苦しみや悩みや理想や感謝を各々の場所で言語化していくこと。同時に個人だけの問題と矮小化するのではなく、社会の問題であるという視野と知識も持つ。

そういう当事者性を持つ人をじわじわ増やしていくことに尽きるのだろうと思う。地道すぎるようでも、遠回りのようでも。

 

SNSのすごさって、小賢しい誰かが何かを宣伝したり流行らせようとする意識でもって臨んでも、結構思い通りにならなくて、何の計算も損得もない、名もなき個人の切実な思いが言語化されたものがすごい力を持って広く伝播することがたびたび起こることだと思う。

名もなき個人の考えが、個々人の意識を変えるものすごい契機になるということと、近年のマイノリティーに関連する意識の目覚ましいアップデートはけして無関係ではない。名もなき個人の考えが、社会が「変わる」ためのプロセスの時間を超短縮していると感じる。

インターネット世界では、名もなきひとりの力は侮りがたいパワーを持つ。だから、一人ひとりが勇気を持って表現することには本当に意味があるし、影響もあるし、同時に大きな責任が伴うと思う。

 

その内に「気が熟す」。そうとしか言いようのない臨界点が来て、物事の様相はがらりと変わっていく。

そのように思って、小さくとも自分のできるだけのことを、無理なく言ったりやったりしていこうと思っている。