続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「グレタ ひとりぼっちの挑戦」

ポスター画像

2020年スウェーデン/原題:I Am Greta/監督:ネイサン・グロスマン/101分

 

娘氏のヒーロー、グレタ・トゥンべリの人物ドキュメンタリー。

彼女がたった一人でストライキを始めたのは、2018年のこと。そこからたった1年余りで彼女は世界で最も有名な環境活動家になった。そのムーブメントの拡がりの急速さがこの作品を見ていると実感される。このようなめまぐるしい動きの中で、グレタと両親の驚きや戸惑いや悲しみが相当なものだったことや、嵐のような状況の中でなんとか足を踏ん張って立っていようとしていたことも。

時折見せる幼さの残る仕草にはっとさせられる。とても可愛い、魅力的な少女だった。こんな重たい荷物を一人で持たせていいわけがないと思った。

 

作品を見る中でもっとも際立つ視点は「どんだけ大人がだめだめか」ということ。もう情けないくらいそれに尽きる。

グレタはいつも静かに黙って大人の振る舞いをじっと見ている。でも、黙っているからといって何も考えていない訳でも、肯定している訳でもない。

グレタを愛する両親に対してすら、その危機意識の薄さをクールに見つめている。

一躍時代の寵児のようになったグレタにあやかろうとする大人たちの依頼で彼女は引っ張りだこだ。毎週末のようにヨーロッパじゅうを動き回り、議会やシンポジウムで気候危機を訴えるスピーチをする。

大物政治家や有名人がこぞって彼女と会いたがる。ローマ法王にだって呼ばれる。訪れた場所で、大人たちは彼女と一緒に写真を撮りたがる。

デモのボルテージは彼女の登場で最高潮に達する。小柄で華奢なグレタの背中越しに熱狂する群衆をカメラが映すと、まるでロックスターのコンサートみたいだ。皆笑顔でグレタに向かって手を振り、人波にもまれながら拳を突き上げている。一体、何をしにここに来たのだろうと思うような喜びようだ。

彼女の行くところ、行くところに人だかりが出来て、彼女に声援を上げたり、握手を求めたりする。

 

こういう狂騒的な空気の中にあって、グレタはやはり黙って澄んだグリーンの瞳で大人たちをまっすぐに見ている。

他人に敵意や批判を向けることはないが「私を見に来る暇があれば、みんな自分自身のできる何かをすればいいのに」と静かに困惑している。

彼女を誹謗中傷するしょうもない人たちのSNSのコメントを可笑しそうに読み上げるシーンもある。不快でないはずはないのだろうけれど、彼女がそこに意識をフォーカスさせることはない。

マクロン大統領に会おうがローマ法王に会おうが、大きな会議で話そうが、グレタは浮かれることもなく、愛想を振りまくこともない。あくまでフラットである。周りの大人たちが浮かれているさまは、かなり格好悪い。

彼女は一貫して自分のやるべきことー環境破壊の危機を広く訴え、温室効果ガスの削減に寄与する活動ーだけに集中し、そのことを淡々と続けている。

彼女の振る舞いは、彼女を褒めそやしたり、したり顔で説教する大人たちが足元にも及ばないくらい、本質から外れることのない、まっとうなものである。

「あなたの活動は素晴らしい」「私も見習う」でも、大人たちは何もしません。

皆が役割を演じるゲームに興じているかのようです。偽りの世界です。とても居心地が悪く、いたたまれない気持ちになる。

重要なのは、ストライキの参加人数ではなく、温室効果ガスを削減することです。

私たちの活動は、皆さんとの自撮りやほめられるためのものではありません。主義の違いを皆さんに乗り越えてもらい、危機に対応してもらうためのものです。

大勢の座っている会議で、突然私が叫んだらどうなるだろう?私の言葉が通じていないように感じる。マイクがオフなのかと。

大人たちは、運動の盛り上がりに盛り上がり、グレタと一緒に写り込むことで、何もしていない自分がさも立派なことをしているような錯覚を起こす。

危機意識は薄い。自分たちの贅沢な生活様式を変えないでよい範囲で、お金儲けに支障がない範囲で、やってる感を演出する。

世界中の首脳が集まって気候危機を話し合う会議の議題が「水洗トイレの水量を減らすかどうか」だったりする、本当に。グレタは呆れ果てて、音声ヘッドフォンを頭から外していた。

グレタ必死に危機を訴えると、大人たちは皆笑顔で拍手し賛同の歓声をあげる。

つまり彼らには全然当事者意識がない。地球に悪いことをしているのは、ここにいる自分以外の誰かなのだ。

「いや、私はあなた方を非難しているのだが。どうすれば自分ごととして受け止めてもらえる?」というグレタの戸惑い失望した表情に、身がすくむ思いがする。

 

むしろ彼女に常に帯同する父親の方が「こんな大舞台に呼ばれるなんて」と思わずちょっと舞い上がったりしている。

ある環境会議の会場で、環境負荷の高いグルメな食事が提供されているさまに、グレタは「環境のことを話し合う場なのに、考えられない」と顔をしかめ小さく呟く。父親は「そうだな、でも食べよう」と明るく言っていた(笑)。

このお父さんは全然悪い人ではなくて、大事なひとり娘のことを何よりも案じて、守らなければと思っている。彼にとっては、かつて拒食症だった、そして今も食事を忘れるほど過集中する娘が健康的な食事を摂ることの方が地球環境よりも重要だし、娘が誹謗中傷に晒されていることをとても心配している。

地球のことを常に考えているグローバルなグレタと対照的に、父のスタンスは清々しいほどにパーソナルだ。それもまた尊い

 

そしてそれが良くも悪くも大人ってものなんだよなあと苦く思う。

グレタは思い詰めたように言う。「言うこととやることが違う人になりたくない」

もちろん、理想としてはかくありたい。けれど、子供や若者の清潔さや純粋さは、年をとり実人生を生きる中で避け難く矛盾を生じずにはいられない。矛盾を許容せずに生き抜くことは、相当難しいことだ。

誰もが何がしかの長いものに巻かれている。人間はずるくてだらしない生き物で、それ込みで世界はこういうことになっている。もちろんおおむね醜いんだけど、その中にキラリと光る美しいものもある、その希望をなんとか感じながら皆生きている。

 

グレタは言行一致を貫くように、国連でのスピーチの依頼を受けてNYへ向かうのに、飛行機を使わず数週間かけてヨットで向かう。とんでもない大揺れと寒さと嵐に遭遇しながら。

不平ひとつ言わず、口をじっと結んで耐えているさまは見上げたものだ。けれど最後には「自分に課されている責任は重すぎる。本当は普通に学校で勉強をしていたかった。生活の全てを投げ打って、どうして自分ばかりがここまでやらねばならないのか」と涙を流していた。

 

そんな年月の集積が、あの有名な2019年9月23日の国連での激しい怒りを滲ませたスピーチに繋がっている。

【スピーチ抜粋】

「私たち〈若者〉は、あなた方〈大人〉を見ている」ということです。

私は今ここではなく、海の向こうで学校に通っているべきです。

それなのに、あなた方は若者に希望を見出そうとここに集まっている。

よくも、そんなことができるものだ。

あなた方は空虚な言葉で私の夢や子供時代を奪いました。

それでも私は恵まれている方で、人々は傷つき、死に続け、生態系は崩壊しつつある。

我々は今、大量絶滅の始まりにいます。

それなのに、あなた方が話すことは、お金のこと、永遠の経済発展というおとぎ話。

よくも、そんなことができるものだ。

 

30年以上、科学は明らかな事実を示し続けてきました。

その事実を無視し続け、この場にのこのこやって来て「十分に対策してきた」などとよく言えたものだ。

実際は、この場には何の政策も解決策も見当たりません。

(中略)

今後10年間で二酸化炭素の排出量を半分に減らしても気候上昇を1.5℃以内に抑えられる可能性は50%しかありません。

50%はあなた方にとっては許容できる数字なのかもしれません。でもこの数字には幾つもの複雑で未確定な要素は含まれておらず、まだ存在すらしない技術で何とかなることをあてにしているものです。

端的に言って、50%のリスクを私たちは受け入れることができません。そのリスクと共に生きていかなければならないのは私たちなんです。

(中略)

(状況はますます切迫しているのに)なぜこれまでと同じやり方で、いくつかの技術的な対策があればこの問題が解決できるかのように振る舞えるのですか?

現在の排出レベルのままでは許容できる二酸化炭素の累積排出量を8年半以内に突破してしまいます。

現在、この事実に沿った解決策や計画は全く存在しません。

なぜなら、この数値はあなた方にとって受け入れがたく、それを私たちに伝えられるほど成熟してもいないからです。

 

あなた方は私たちを裏切っています。

しかし若者たちは、あなた方の裏切りに気づき始めています。全ての未来の世代の目が、あなた方に向けられています。

もしあなた方が裏切ることを選ぶのであれば、私は言います「私たちはあなた方を絶対に許さない」と。

 

世界は目覚め始めています。あなた方が好むと好まざるに関わらず。

 

世界中の首脳たちが、16才のグレタに叱り飛ばされていた。私も危機意識を持ち始めたのは、たったこの数年のことだ。気が付いた時にはもう手遅れに近い状況になっていた。

自然の富を貪り、子供たちにこんな世界を手渡そうとしていることがただただ恥ずかしく申し訳ない。

せめて一人の生活者として状況の悪化に加担する行動をせず、声をあげていくこと、そしてこの怖ろしく、受け入れがたい〈事実〉から目を背けないことが最低限の態度だと思う。