続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

人生とは、解決すべき問題ではなく、味わうべき神秘だ

今日の考えその2。

最近の維新の会の人々を見ていて思うのは、彼らのひどさそのものよりも、彼らの明らかな失政も、すぐに分かる嘘も、露悪的な態度を隠しもしない言動も、彼らは何ら責任を問われずメディアで大きな顔をし続けていられることがすごいなということ。

今回、橋下氏が大石議員を訴えたのは彼女を恫喝し黙らせるための無理筋のスラップ訴訟で、彼は過去にもスラップ訴訟を繰り返して、最高裁まで行って完敗もしたケースもある。こんなこと、本当に恥ずかしく、社会的信用を失う行いのはずだが、なぜか彼は今日も普通にテレビに出てコメンテーターをしていた。一体なんなんだろう。

維新の人々と維新の会のありようは、自民党ももちろんそうだし、トランプと共和党のありようと酷似しているし、アメリカのみならず、こうした「輩」的な人々は世界中で雨後の筍のように目立って台頭してきているように見える。

 

いずれも論理性やコモンセンス、倫理観といったものが有効な抑止力にならない、話し合いが成立しない人々。どんなに明らかな瑕疵や嘘を指摘されようが、彼らは基本意に介さない。そのような姿勢は当然人としての信用の失墜に繋がるはずなのだけど、メディアを巧みに利用し、真実を煙に巻いてしまうことによって、全てがうやむやになり、検証が不可能な状態になっている。

 

それで、怖いね、こういう人々や彼らの行う政治にどう対処すればいいのかね、と朝グラノーラを食べながらだんなさんに尋ねてみたら、彼はこう言っていた。

「そういう人たちには投票してはいけないし、困った問題を解決することも必要だけれど、それにかかりきりになってしまうと人生はすぐに終わっちゃうよ。もったいない。

もう人生が本当に有限だと感じる年齢になってからは、いかに納得できるように生きるかを考えるようになった。

坂口恭平がキルゲゴールの言葉を引用していて『人生は問題の解決ではなく味わうべき神秘だ』と言っていた。ああ、いい言葉だなと思って。

 

そして輩的人々は、こっちを見てほしい、相手をしてほしいということがあるから、相手をした時点で負けというところがある。だから、無関心を向ければいい。愛の反対語であるところの無関心を。

それで、自分の好きなもののことを考え、やりたいことを楽しみ、納得性のあることをする。

もちろん身内とか、頻繁に関わらなくちゃいけないくらい身近に輩がいたら、そんな悠長な態度ではいられないとは思う。だとしても、何とか、何かしら自分で見つけていくしかないんだと思うよ。」

 

「それってみうらじゅんだね」

みうらじゅんは相当な達人だと思うよ」

と、みうらじゅんを称える会話で終わった。

私もいつかみうらじゅん賞をもらえるような人になりたいものだ。

 

とはいえ、私は考えることが趣味なので、解決を目指さないまでも、少しは彼らが何者で、何が起きているかを知ることで自分なりの態度を持っていたいなと思っている。