続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「欲望の資本主義」を見て考えたこと②、「コレクティブ 国家の嘘」

地球環境に配慮しながら安定して経済発展し続けているスウェーデンの例が番組で取り上げられていた。

その最も大きなポイントは、国によるサポートが基本的に企業ではなく個人に向けられていること。競争や合理化の上で劣った企業を政府が救うことはあえてせず、淘汰させる仕組みになっている。

スウェーデンでは、企業は常に進化を求められ、環境対策を含めた法規制に対応し、生き残るための必要な投資は、企業自らビジョンを立てて自腹を切って行う。

淘汰された企業の労働者たちが速やかにより良い企業にスライドできる仕組みについては、実際のところどうなのだろうと疑わしく思った部分も正直ある。

しかし、国が個人を福祉でしっかりサポートするので、転職も容易で、会社にしがみつく必要性が低い社会になっていることは確かである。つまり会社が潰れても、経営者も労働者も死ななくてもいい社会になっている。

でもそもそもを考えてみれば、会社が個人よりも下の位置にあるのは当然だし、競争に勝つこともあれば負けることもあるのは当然のことだよな、と思わされる。

翻って日本では、なぜ個人の上に会社があるのか。なぜこの国では、人々は「仕方ない」と簡単に切り捨てても、大企業は税金を投入してでもなんとしても救わねばならないのが当然のように思われているのだろう。

個人が企業を通してしか救われないから、雇われなければ即座に生活が行き詰まるし、会社が倒産したら夜逃げしたり、ひどい時には人が死ぬようなことがコロナ禍でますます多く起こっている。

 

スウェーデンとはかなり違う国のことを描いた映画を昨年末に見た。

「コレクティブ 国家の嘘」というルーマニアドキュメンタリー映画。国家ぐるみの巨大な腐敗と不正をスポーツ新聞の一記者が大胆に暴いていく、エンタメばりにスリリングな作品だった。(実写版「スポットライト」みたいだった)

ルーマニアでは、政府は国民でなく企業や資本家を守り、情報は常に権力者によって隠され、メディアは抑圧されている。

大臣は、追究されるとすぐにばれるその場しのぎの嘘の情報を平気で言い、全然大丈夫じゃないのに大丈夫だと言う。それでのちのち取り返しのつかない事態に陥っても、誰も責任を取らない。

金とコネ次第でポストは思うままで、教授や病院理事長といった要職につくこともできる。一般の人々においては、努力しても、能力が高くても、それに応じたポストが与えられることがないアンフェアで閉塞感に満ちた社会。

まともな歴史教育や人権教育も行われていないので、人々の問題意識は低く、かつ希望を失っている。20代の若者の投票率はなんと5%。人々はおしなべて物静かで、うつむいて嘆息しているように見える。

そのようなひどい状況の中、与党政治家は金と権力維持のために医療や教育といった基盤になるインフラまでもグローバル企業に売り払い、国はますます焼け野原になり続けている。人材は空洞化し、社会はずぶずぶと沈み続ける。

 

もちろん、自由競争を基本とする資本主義である限り、全ての国民が十全に尊厳を守られることは、北欧のような福祉国家であってもやはり難しいとは思う。今は移民や難民の問題もある。競争は避け難く残酷な側面を持ち、こぼれ落ちる人は必ず出てしまう。

それでも、よりベターなのはどちらの国かと問われれば、答えはあまりに明らかだ。

 

そして残念なことに、ルーマニアと日本の今の状況は、嫌になるくらい似ている。あまりにも同じような間抜けでずるい人々が同じようなことをしているので、見ていてため息が出た。

私はかねてから素朴に不思議に思ってきた。社会に賢く立派で有能な人はたくさんいるのに、どうして日本ではあそこまで知的でなく専門性も低い人たちが選択的に権力のトップに集結してしまうんだろうかと。その答えの一端が「コレクティブ」の中で示されていたと思うし、スウェーデンの例と比較するとより腑に落ちるところがある。

 

ここから見えるスウェーデン型社会とルーマニア・日本型社会の違いは明白なものだけで3つあると思う。

1つめは先述したように、政府が国民個人を守るのか、個人よりも企業や組織を優先的に守るのかの政治制度、優先順位の違い。

2つめは、情報がオープンで、メディアの独立性が保たれていること。あることをないと言ったり、ないことをあると平気で言うことが通用する社会かどうかということ。

3つめは、フェアなルールの上で競争が行われていること。資産や人種や家柄や性別などによる差別で同じスタートラインに立てない社会であるかどうか。

 

とどのつまりは、競争に負けても、失敗したり間違っても、権力があろうとなかろうと、個人が安心して生きていける社会であることが重要なのだと思う。

腐敗した制度の中で腐敗した人間が共犯者と排除者を増やしながら腐敗のシステムを練り上げて行くのは、彼らが自信がなく不安だからだろう。だから国ががどうなろうと「自分だけは安定して受益できる社会」をせっせと懸命に作っていく。

そもそもが正義とか悪ではなく、自分がサバイブするために選びようなくやっている。だからいくら正論でいくら責めても通じない。

 

腐敗した現状を打破するために一番てっとり早いのはもちろん腐敗した人々を大きな力でもって一掃することで、あらゆる革命はそれを夢見て行われる訳だけれど、一瞬のカタルシスは得られても、長期的に見てそれが解決に結びつくかというと、そうはならなかった例の多さは歴史が示す通りである。

原因は「腐敗した人々」だけではなく「腐敗した人々を選び、彼らの不正を許し、支持さえしたわたしたち」であること、そこを省みない限り、大抵人が変わっても同じことの繰り返しになる。

 

だから、社会を良くするためには大きな制度的転換が不可欠なように一見思えるのだけど、実は個々人の不安と恐怖をどれだけ解除できるかという意識の問題なのだと個人的には考えている。

不安と恐怖が軽減されることと、社会の不寛容、差別、分断の度合いはリンクしていると思う。

人の意地悪さや、差別や排除の感情は、力づくで罰することでは多分殲滅できない。遠回りなようでも、結局無力化するしかないんだと思う。

だから、一人ひとりができることをすることは、無力じゃない。

 

資本主義の番組を見ていて、結局行き着いたところは、「今年の抱負は人に親切に、見て見ぬ振りをせず、寛容に接することを心がける」でしたとさ。それから、今年は北欧の国々に関する書物をもっと読んで学んでみたいなと思っている。

ポスター画像

2019年ルーマニアルクセンブルク・ドイツ合作/原題:Colectiv/監督:アレクサンダー・ナナウ/109分