続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「欲望の資本主義」を見て考えたこと①

NHKの「欲望の資本主義2022」、偶然後半から見たのだけど、マルクス経済学者の斉藤幸平さんとチェコの経済学者トーマス・セドラチェクの対話がすごく面白かった。

セドラチェクは、少年時代に母国である旧チェコスロバキアが革命で共産主義を終わらせた時期を身をもって経験している。いわゆるソ連型の一党独裁共産主義がどれほど個人にとって害悪の多い体制であるかを骨の髄まで知っているゆえ、斉藤さんの提唱するある種理想主義的なコミュニズムに対しては非常に懐疑的である。

現在幅を利かせている資本主義を犯人とみなす論調について「そうじゃない、色々分けて考えないといけない」というセドラチェクの指摘は重要だと思った。

 

分けて考えるべきことは二つあって、一つには、社会主義共産主義が混同されて語られていること。

セドラチェクの言うところの社会主義とは「不必要なもの、害のあるものについてはより多く課税し、必要なもの有益なものについては補助金を出す」という民主的バランスを取る政治体制を指す。

対して共産主義コミュニズム)とは、国民の生み出した富のほとんどを国家が吸い上げ、その分配の権限を中央権力が独占的に握り、国民が国の財産の使われ方に関与することは叶わないという政治体制のことを指す。

 

もちろん、本来の共産主義が目指す理想は、『主要な生産手段を社会化することによって、人間による人間の搾取を廃止し、社会から貧困をなくすとともに、経済の推進力を、利潤追求から人間の物質的精神的な生活の発展に求め、すべての人間の自由で全面的な成長・発達を目的とす(「共産党宣言マルクス・エンゲルス著)』であるわけだが、当初の理想がどれだけ高尚であろうが、共産主義が本来の目的に基づいて機能した例は歴史的を振り返ってみてもひとつも存在しないとセドラチェクは喝破する。

斉藤さんの「資本主義が環境破壊を押し進めている」という主張についても「今、世界で一番環境を破壊し、環境保護にも後ろ向きなのは、共産主義国である中国だ」とセドラチェクは反論する。確かにそれはその通りだと言わざるを得ない。

実際、彼の母国チェコの民主革命において、一番最初の火種は、政府の環境に対する無配慮による公害被害への抗議デモだったという。

だから、資本主義をなくせば環境破壊が収まるという方程式は根本的に成り立たないのだ、とセドラチェクは言う。

 

ごっちゃに語られていることのもう一つが、「資本主義」と「新自由主義」である。これをいっしょくたに語っていることが話をかなりおかしくしている。

資本主義(キャピタリズム)とは、生産手段の私的所有と利益のための運用を基本とする経済システムのこと。労働者は労働力に応じて報酬が得られ、市場(マーケット)を基盤として自由に経済活動を行える。

もちろん、資本主義に瑕疵がない訳ではない。しかし個人の人権を認めない共産主義とは比べものにならないくらい「ましである」とセドラチェクは言う。

資本主義を民主的に運用することは可能であり、実際ヨーロッパの多くの国では、医療・教育・福祉などが無償で受けられる社会が資本主義下で、流血も革命もなく実現している。

では、最低限の公共財、基礎インフラまでもが民間に売り払われ、貧しい人はまともな医療や福祉を受けられず、ものは溢れているかもしれないが全てが金次第で、学生は高額の学生ローンに苦しめられ、しかも納税額は高額といった、アメリカ・イギリス・日本といった国々はどうなのか?

これらの国がひどい状況下にあるのは、これらの国で「新自由主義ネオリベラリズム)」が野放図にまかりとおっているからである。そこを分けて考えないといけないというセドラチェクの指摘は、すごく納得性のあるものだった。

考えてみれば、新自由主義を牽引した政治家はイギリスのサッチャーアメリカのレーガン、日本の中曽根、小泉。完全に一致する。ひどい話。

 

かつては高度経済成長期の日本においても、ニューディール政策下のアメリカにおいても、民主主義的な考えに基づいて富の分配が運用されていた歴史がある。いずれも富裕層の納税率は非常に高いものだった。

そのバランスが1980年代の「新自由主義」の台頭によって一気に崩れ去っていくことになる。

イギリスの「ゆりかごから墓場まで」を謳って運用されてきたNHSだってとうに機能不全に陥っている。

新自由主義を、資本主義の一つの進化形のように考えること自体がそもそも間違っている。新自由主義とは実際のところ、民主主義を無効化し、資本家や権力者が相応の税を負担することなく、富を独占することができるように持ち込まれた悪質な詭弁的概念である。

資本主義が無謬なわけではないが、何よりも新自由主義が、貧富の差を拡大し、社会をあらゆる側面において悪質化させた主因であるということを踏まえておかないといけない。

「成長し続けないといけない」という考え方も、新自由主義のものであり、資本主義は必ずしも成長しなければならないものではない、成長は必要ない、とセドラチェクは言う。

 

それにしても、この話を聞いていてつくづく思ったのが、日本の政治体制は、少なくとも富の分配に関しては、もはやほぼ独裁的共産主義国ではないか、ということ。

だって、我々の収入の半分以上は税金で吸い上げられ、情報開示を求めても常に黒塗りで、加計学園やアベノマスクやGO TOキャンペーンやオリンピックや水道の民営化など、権力者がいくら利権を優先しておかしな税金の使い方をしても、国民にそれを止めることは出来なかったし、大失敗しても何の咎めも受けないし誰も責任を取らない。そればかりかどんな不正が発覚してさえも、権力者が罰せられることはない。

そして、あらゆることを財源のなさを理由に、自己責任、自助共助で、公的な助けはなるべくしたくないのが基本姿勢。一党独裁共産主義新自由主義の最悪のハイブリッドがますます極まり続けているのがこの国の現状なのだろうと思う。

少なくとも、妙な勘違いは目を曇らせるので「この国はもうとっくに民主主義の国ではない」というリアリズムは持っておくべきだと思う。

 

「ありとあらゆるものを商品化する資本主義に対抗して、コモンを再生し、かつての共産主義国のように中央集権的ではなく、地域コミュニティで共同管理することで、全てを金で買わなくては生きていけない状況を変えていきたい」と言う斉藤さんの主張は正論だと思う。本当にそうなって欲しいとも思う。

しかし、そこにはすっぽりと空いた大きな落とし穴みたいなものがある。セドラチェクとの対話でそのナイーブさが明確になった。

それはつまり、人間観。コモンを平和と平等を維持しつつ、私利私欲に走らず、安定的に節度を持って運営できる人間がどれだけいるのか、そんなに人間って立派だったっけ?平たく言えばそういうことだ。

残念ながら、我々人間は、基本的に仲良くやれない存在なのだ。

コミュニティったって、自治会レベルでも紛糾するし、忖度も癒着もするし、パワハラセクハラもあるわけだし、世の中は崩壊した夫婦関係や家族関係で溢れている。社会の最小単位ですら平和に維持できないことを一人ひとりが身をもって証明している。

立派で倫理観があり、なおかつ実務能力も高い人々はもちろんいる。バルセロナとかベルリンとかボストンとか。でも、なんと言うか、そういう好例はわりにちょっとしかない。さらにそんな素晴らしい場所も、首長が変われば簡単に駄目になったりもする。

活気あるコモンを、あらゆる不正から守りながら長期的に運営するのは、規模の大小に関わらず、多分、人間には相当難しいことなのだ。

 

だからこそ私は市場(マーケット)と言うものを愛している、とセドラチェクは言う。

そこで、同番組で触れられているように、スウェーデンの政治経済のように常に企業をオープンな競争に晒された状態におくこと、その平等性が不正と腐敗のブレーキになるという思想がリンクしてくる。あまりに長くなったので、この論点は別記事で。

 

いずれにしても、キャピタリズムがだめだからコミュニズムに希望を見出したい。その気持ちは分かるが、ではコミュニズムが実際どう機能するかを知っているのか?というセドラチェクのシビアな投げかけは、机上の論理の脆弱さを浮き彫りにする。

しかし同時に「ドラスティックな変化はリスクが大きすぎるとあなたは言う。ではそんな悠長なことをしていて、10年後、20年後にリミットが来ると言われている地球環境の破壊にどうやって急ブレーキをかけるのか?」と問う斉藤さんに、セドラチェクは事実上、答えることができなかった。

待ったなしのこの状況を、我々はどうサバイブしていくのか。

 

多分。多分、このままのスピードで、ほとんど緩まることなく、地球は壊され続けていくだろうと思う。昨年末に見た、アダム・マッケイの「ドント・ルック・アップ」はまさにそういう映画だったなあ。風の谷のナウシカみたいな、腐海が地表を覆う世界が現実になるのかもしれない。

微力でもできることはやっていきたいし、考え続けるだろうけれど。でも、SDGsとかマイボトルマイバッグとかは、普通に焼け石に水だよなと思う。

1歳の子供を育てている身で、それを認めるのはとても苦しいことだけれど。