続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

対話の効用

昨日は、月に1回の不登校を考える会の集まりだった。

基本は発起人二人を中心に細々とやっている会だけれど、最近になって運営に関わりたいという人も新たに出てきてくれたし、当事者の親だけでなく、児童養護施設の元職員や地域の居場所の運営スタッフなど、徐々に参加者に広がりが出て来て面白くなってきたなーと思っている。

地域の公立学校のスクールカウンセラーから見学したいと申し出があったり、(平日の昼間にやっている会なので)仕事を休んで参加したいのでスケジュールを教えて欲しいと問い合わせがあったりもした。

 

ホームページもフェイスブックもなく、一度ちらしを作ったのみで(それすらあんまり撒けていない)本当に宣伝下手な私たちだけれど、「ここに一つ、不登校について話せる誰でもウェルカムの小さな場所を作りましたよー」と小さな声を上げてみたことの意味はやはりあったなあと思っている。

不登校の当事者家庭は、ほとんど情報もなく孤立しているケースがまだまだ多いし、コロナ禍も相まって外の世界の風がとても入りにくく、閉鎖的なしんどい状況に陥りがちだと思う。

必要な人にどうか届いて欲しいなと思うし、同じ状況にある者同士だからこそすっと分かり合える部分があって、そういう出会いが毎回楽しくて続いていると思う。

 

不登校について考えるというのは、学校について考えることであり、学校とはこの国の政治行政システムの写し鏡であり根幹である。だから、不登校について話し合うことは「この社会のそもそもを問う」という姿勢に繋がってくる。

堅苦しく話しているわけではないけれど、毎回必ず本質的な対話に自然となる。そうならざるを得ないのだ。

また、ここに来る人たちは、みな何かしら傷を負っている。自分や子どもが排除されたり、傷つけられたり、いじめに遭ったり、病んだりしている。マジョリティーの作る、効率的でスピードが早くて向上心を持って更なる高みを目指すみたいな世界に適応できずにこぼれ落ちた人たちである。悲しみや怒りや孤独を心の内に抱えている。

自分の弱さ、ままならなさ、駄目さを自覚して、そこから世界を眺めている人たちは、皆私の仲間だなと感じる。

昨日も思ったことだけれど、小林エリコさんが著書で書いていた通り「弱さが集まると優しさが生まれる」。

自分のような者がささやかでもそんな場を作れていることはとても嬉しいことだし、いわゆる「親の会」って結構短命なケースが多いらしいけど、うちらは細ーく長ーくゆるゆるで続けて行こうねと代表の人と言い合っている。

 

昨日は、当日の朝になって娘氏が「暇だし私もついて行ってみようかな〜」と急に言い出した。そのうち気が変わるかもと思ったが意外に変わらず、くっついてきた。

子供が参加するのは初めてだったけど、思いがけない化学反応に、ちょっと泣きそうになる場面もあり、連れていくことができて良かったなと思った。対話のもつ力を実感した。

 

家族としてずっと一緒にいて、いろんな話をしているようでも、今娘氏が何を考えて生きているのか、実はろくに分かっていない、あるいは勝手に思い込んだり、たかを括ったりしているものだなとつくづく思う。

今の辛さも誇りも含めて本人の口から改めてまとまった話を聞いて、はーーそうだったのかーーーはーーーと思わされることはいくつもあった。

娘氏は、もともと論理的に話すことが得意な子だが、不登校になってからは更に想像力と客観性をもって語れるようになってきている。だから彼女が本気で喋ると、先生を含めた大抵の大人は「まだ中学生なのにそんな風に喋れてすごいねー、色々考えてて偉いね、立派だね」としきりに感心をすることに終始する。(もちろん年相応の頭でっかち感もある)

でも、それって一見褒めているようで褒めてないんだってことが今回良く分かった。なんていうか、それは娘氏の言う言葉の内容は受け取らずに、ただ上の立場からものの分かっている大人のていを示しているだけで、真剣勝負から逃げている物言いなのである。もしくは、その大人が一人の人間として娘氏と対峙するだけの気構えが不足しているか、拮抗するだけの本気の言葉を持ち合わせないということのあらわれなのだと思う。

 

そのようなことをはたと思ったのは、あの場に「ずるくて自分の言葉を持たない大人」は一人もいなかったからである。

娘氏の表現を借りると「大人は大抵ボールを投げてもまともに返さない、すっとかわす。フリースクールの先生だってそう。でも今日は違った」。

 

会の代表Sさんは、娘氏の話をずっと黙って聞いて、それからこのようなことを言った。

「借り物でない自分の言葉で、思いを正確に誠実に伝えようとしているってことがすごく伝わってくる。この言葉を獲得するために、あなたがどれほど悩んで、考えて抜いてきたのか。毎日毎日、あなたは努力してきたんだよね。

私はね、自分の子たちを見ていても、学校に行っていようが行っていまいが、子供が学んでないことは1日もないんだって思っている。無駄なことは一つもないって思っている。

大人は、過去の良かった時にすぐに戻ってそこに閉じこもったり、逃げたりすんだけどさ、子供は違うんだよ。もがいてもがいて、なんとか前に進もうとしている。いつもなんとかしようとしている。子供はすごいんだよ、泣いても前向いて泣いてんの。引きこもって布団かぶってるから止まっているように見えても、実は子供は毎日進化し続けているんだよ。

私自身が自分を励ますために思っている言葉があって、それは「過去にあったことは変えられないけど、今どう生きるかで過去を意味づけていくことはできるんだ」という言葉。

だから、自分を大事に守りながら、伝えたいことを伝えたい人に伝えたほうがいいよ。そのことで前に進めると思うなら。だってあなたはそれができる人なんだから」

 

娘氏は、隣で静かに長く息を吐いていた。そして、まっすぐSさんの目を見て、「こんな風に共感してもらえたこと、自分を認めてもらえたことは初めてです。だから、とても嬉しい。嬉しいです。ありがとうございます。」と返し、

Sさんは、「そんなぁ〜〜涙出ちゃうよ〜」とちょっと泣きそうなのをごまかしておちゃらけて言っていた。

 

私も泣きそうになりながらそのやりとりを側で見ていて、ああ、自分は娘氏のことを「受け入れ」て「許して」たかもしれないけど、こんな風に共感したことや認めてあげられたことは本当にはなかった、と申し訳なく思った。やっぱり自分のような未熟な者だけでは子供には役不足で、子供は色んな人に育ててもらうのがいいんだなと改めて思わされた出来事だった。

 

その後、学校の人たちと話す場を設けようかと私が尋ねた。

「あの時、どうすれば良かったのかなってずっとずっと考え続けて、でも答えが出なくて。今もどうすれば良かったのかは分からないし、同じことがまた起こったとしても、自分には対処が出来ない。だから今も学校が怖いままで、学校の建物を見たり学校へ向かう道を歩くだけでも心臓がばくばくして身がすくむ」

と娘氏が答えると、今鬱で仕事を休んでいるKさんが、「分かる、分かるよー。僕も職場へ続く道っていうだけでどきどきします」と言って、嵐のように乱高下する心を持て余しながらもじりじりと踏ん張りながら生きている毎日について淡々と語ってくれた。

 

ここにいる大人たちは、まず自己開示をして、自分の弱さをさらけ出した上で一人の人として話しているというところが、娘氏にとっては先生などとは圧倒的に違うんだよなあと感じた。

以前、中学校の校長先生と話した時に、次第に完全に心のシャッターを閉ざしてしまったのは

「私の話を聞く気が全くないのが分かったし、自分の方が偉くて分かっている者という立場を守ることが大事で、さらに一方的に脱落した劣った、気の毒な子として扱ってくるので傷ついたし腹が立った」からだと娘氏は言っていたけど、まあそういうことだ。大人がけちなプライドを守ろうとしていることを、子供は全部お見通しなんだよな。

 

帰り道に娘氏が言っていたこと。

フリースクールの先生でね、一人だけ自分のプライベートなことを時々話す先生がいるんだけど、必ず頭に「ほんとはこんなこと言っちゃいけないんだけどー」って言うんだよ。

あそこにいた人たちは、自分にはこういうことがあって、こういう人生を歩んできて、今こんな事を考えています、ってまず言ってくれたね。それ嬉しかった。

不登校になって、いろんなむかつくこともあって、分かって助けてくれる人が周りにいて自分はラッキーだったけど、同時に無理解だったり傷つけてくる人もいて、そういう腹立たしいものについては関わりを拒否して背を向けることで自分を守ってきた。

でもSさんを見ていて自分が恥ずかしくなった。自分には言いたいことを言える口と身体があるのだから、ちゃんと言うべき事を言っていった方がいいなって。

それにしても、Sさんてすごい、こんなにすっと共感してもらえたって感じられたことはない。ほんとにありがたかったし、忘れたくないからボイスメモ撮っとくんだったー。久しぶりに誰かに対して心から「嬉しい」という気持ちが湧いたよ。普段はだいたい「ここありがとうっていうところだな」って感じなんだけど。

私の過去を意味付けることを、まさにSさんがやってくれたんだよ。

自分の主観としては、どんどんみんなと同じことができなくなっていって、起きれないし外にも出れないし、考えることはその言い訳を練り上げてることだって自分では思い込んでいた。でもそれを「毎日努力し続けた」と言ってくれてびっくりした。嬉しかったー。

本当に自分の気持ちを想像して寄り添ってもらえたら、初めて自分を傷つけた人の気持ちを想像してみる気持ちが生まれた。相手にも相手の事情があってああいうことになっているのかなって。

 

自分と同じように学校に行っていない子供同士で話してみたいという思いを娘氏はずっともっているのだけど、そういう場を提供することがなかなか出来ない。

子供は本当にきつい時期は外に出てこないものだし、そうでなくても日々コンディションが定まらないから、なかなか集まるって難しい。当然強制はできないし。

でも、ちょっと実現に向けて考えてみたいなと思った。

思いを持った人と人が実際に会って対話することの効用を、娘氏を見ていて確かに実感したから。