続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

緩やかな鬱

もがきつつ、右往左往の一週間が終わろうとしているなあ。

でもなんか、ようやっと少しだけ、灯りが見えた感。

 

台風が近づいていて、ずっと薄暗い。早朝からどんどん雨脚が強まっている。いいな、この感じ。今日はきっと家から一歩も外に出ない。

このところはずっと気分が晴れなくて、明るくなれず、周囲にも迷惑をかけてしまい、人知れず自己嫌悪で落ち込んだりもしていた。

特に悪いことがあったわけではない。わりに外に出て人と話していたし、さくさく幾つかの実務を片付けたし、遠出をして久しぶりに箱根で温泉に浸かったりもした。

 

今週会って話した人たちは、皆本当に良い人ばかりだったなあ。でも、ほんとにすごいな、良い考え方で励まされるな、明るく溌剌として素敵だな、こんな私に親切にしてくれてありがとうって思うからこそ、自分の仄暗さが嫌というほど際立つ。

どうにかうっとおしくならぬよう、ポジティブ寄りになりたいとあれこれ試行錯誤するのだけど、気づけばネガティブな思考にグーンと引っ張られている。

色々なことに失望したり、腹を立てたりしている。そんな自分に嫌気がさして、さらに元気がなくなるというバッドスパイラルの沼にはまって、一人静かにやさぐれていた。授乳中なので酒を飲んでごまかすこともできない。

しょうもない自分に「あーしょうもないなあ」と思いながらうだうだ付き合うのみ。

 

歳をとるごとに、躁と鬱のサイクルが変わってきた。若い時は短期間に激しく乱高下する感じだったのが、緩やかで長いスパンで移り変わるようになった。躁の時の激しい多幸感を幸せと勘違いしていたが、あれは興奮であって幸せではないんだなと理解してからは、あんまり調子に乗って上げぬよう、平らかであるように常に心がけるようになった。何よりも歳を取ったことで、誰しもそうであるように、普通に落ち着いてきたのだと思う。

緩やかになったそれ自体は良いことなんだけど、「うっすら鬱」の期間がすごく長引くようになったのは何気にしんどいことである。いつかは抜けることを知っているということだけをよすがに、沼に浸かって生きている。

 

こんなに良い家族と良いサポートに恵まれて、安心してゆったりと暮らせているのに何が気に入らぬのだ自分、と罰当たりな自分を責めたくなる。

でも、どんだけ罰当たりであろうと、私の脳が辛く、孤独で、くたびれたと感じること自体をどうしようもない。ハッピーとは客観的な状況それ自体で実現されることではなくて、主観がハッピーと思えるかどうかだけにかかっている。

こういう時はできるだけ周囲に迷惑をかけぬよう、のらりくらりとやるしかない。慣れてはいる。

 

あ、抜けた、と思うきっかけはいつも些細なことである。

一見それ?と思うような小さな行動とか、気心の知れた人とのたわいない会話とか。

今回の気づき。

自分の身体を労わり、自分の人生の主体性を守ることをおろそかにしてはいけないんだということ。そのことをさぼったり、遠慮したりしすぎると心が荒んだり、無力感が生じてしまう。

また、色々な人との関わりについて。何らかの目的や損得関係やお金が絡む人間関係は人間やっている上で避けられず、自分なりに誠実にやっていくしかないし、そういう関係の中にも善きものは生まれ得るのだけど、目的や損得やお金が絡まない人間関係は宝物だから、本当に大事に最優先した方がいいんだということ。

 

人生の時間というリソースは有限だから、大事なものの順序は、ゆめゆめ間違えないように。