続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「ドライブ・マイ・カー」

映画『ドライブ・マイ・カー』感想。心が軽くなるNTRモノ。 - 社会の独房から

2021年日本/監督:濱口竜介/179分/2021年8月20日〜公開

 

久々の映画館での映画鑑賞は、179分という長尺作品。でも、長さは感じなかった。

自分にとっては観ている間ずっと息がしやすく、溶け込むように入り込んで観た。

今年見たベスト作品の一つになると思う。

 

”孤絶した場所で、黙って、心を一旦深い薄暗い場所に沈める。

その深い層には、どうしても失いたくないから目を逸らし続けていた弱く心細い孤独な心や、優しさや思慮深さだと自分自身をも騙して、でも実は無意識的に相手を断罪し、同時に束縛していたのかもしれない狡猾で残酷な心のような、複雑で未分化な感情たちが息を潜めて静かに呼吸している。

目を見開いてじっと正面から見つめると、苦しく胸が痛い。

自分がどれだけ無心に愛を求めているかを感じて、みじめで悲しいし、自分にとって特別な他者を改めてかけがえなく愛おしく思う。

自分のやり方は間違っていたのかも知れないということにようやく思い至る。

誰も傷つけたくないし、どれだけ誰にも責められない正しい振る舞いであっても、結果的に誰かを損なってしまうことはある。

自分は自分でしかないという諦観もある。

 

解決できないことや取り返しのつかないことを受容して、自らの不完全さに耐えるということ。誰もがその人たちなりの事情を抱え、それぞれに黙って受け止めて何とか生きていること。

その事実に触れることで少しだけ慰められる。ほんのちょっとだけ、他者と繋がったように思える瞬間がある。

 

全てを投げ出して終わりにしてしまいたくなる。けれど、スイッチオフするように全てを置き去りにすることはできない。

誰かがその人を必要としている限りにおいて、誰かがその人を愛し、気にかけている限りにおいて、そこにはそれなりの責任というものが生じる。

だから、ささやかな希望をかき集めて、全ての物事を細分化するようにして目の前の小さな動きを無心に遂行することを続けながら、なんとかじりじりと浮上しようとする。自分のやるべきことを淡々とやっていく。

誰も別に誉めてはくれないんだけど、どうしてもそれはやらなくてはならないことなのだ。”

 

村上春樹の小説から私が学び、受け取り、実際的に助けられてきた部分とは、多分このような、「人生に対する信条」のようなものなんだと思う。

そしてこの長い映画もほとんど同じことを描きだしている。原作の筋に忠実なわけではなくてもこの世界観を共有しているという点において、忠実な映画化だと思う。

イ・チャンドン「バーニング」は、非言語的に村上作品の心象風景を圧倒的な美しさで映像化したけれど、この作品の言語的に村上作品を咀嚼したアプローチもまた素晴らしかった。

 

20代から30代にかけて、村上の幾つかの小説を、「さあそろそろ潜ろう」と思っては手に取り、半月か三週間くらいかけてじっくり沈んで、段々と浮上するということを定期的に欲して繰り返し読んでいたことを、この作品を見て久しぶりに思い出した。小説を読んだ時とすごく似た気持ちになったから。

その頃の自分には、切実に必要なことだったなあと思い出す。

あんなに何度も読んだのに、いつの間にかもう何年も古い作品を読み返していないし、新しい作品に対しては、パーソナルな感情は湧かない。どうしてなんだろう?

でも、今久々に古い作品を読み返したくなっている。

 

私は何につけ「この現象がどういうことなのか分かりたい」「このことについてのしっくりする言葉を見つけたい」という欲が強い人間だが、村上作品に対してはいつも、不思議とそれをあえてしたいと思わない。あるがままにしておきたい。どんな批評も分析も耳に入れたくない。それは自分にとっては特別なことである。

 

この映画に対しても、解釈も言語化もあんまりしたくない。ただ好ましい、この映画の世界にたゆたっていたい。しばらくはこの感じを一人じっと味わおう。

 

それでも、ひとつ言えることは、この作品あるいは村上作品が告げていることは、フランク・シナトラ的に平たく言ってしまえば〈That's life〉ということに尽きる訳である。 書いてしまえば、あまりにあまりな一般論なのである。

村上春樹がしばしばからかいの対象になるのは、人によっては〈That's life〉はいかようにも粗暴に、一言で片付けられるものだからだ。強くて、合理的で、シンプルに物を考える人にとっては、きっとひたすらまわりくどく、気障と感じられるのだろう。

起承転結、因果応報、白黒、善悪のはっきりした「人生の教訓」を好む人は大勢いて、そういう人々にとっては、この映画はまるで何を言いたいのか分からない、いらいらするばかりの作品なのかもしれない。

 

「ドライブ・マイ・カー」は、「それでも我々は何とか人生を生きていかなくてはならないのだ」という一つ間違えれば陳腐になりかねないこの一般論を、村上春樹の小説のようにして、切ない重みをもって、濱口監督なりのやり方で切り取ることに成功していたと思う。ここには人生の真実の断片がある、少なくとも私にはそう感じられた。

 

この映画に出てくる人々は、アキ・カウリスマキの映画のように余計な感情を排して棒読み調で話す。それは誠実さの証。

感情は強く、誘導的なものだから、ずるいのだ。

感情というの装飾を外すことで、一見よそよそしく他人行儀のように見えて、逆に真摯に人と人が向かい合っているさまが浮かび上がってくる。

カウリスマキの映画が私は大好きだけれど、改めてそういうことなんだとしみじみわかった気持ち。

彼らの感情で土足で人の心に雑に踏み込まない感じ、ごまかしやはったりのない正直な感じが見ていてとても安心するし、無表情で無愛想な人たちだからこそ、逆に心を温められる。

 

この作品で特に印象的だったのは、岡田将生演じた高槻という青年。(「大豆田とわこ」のシンシンだった人)

彼はハンサムだがぶざまで、自分を律することのできない未熟な人だ。激しやすく、安易に欲に流され、プライドが高く、家福(西島秀俊)のような人物に憧れているが、致命的な軽薄さがある。家福の妻の音(霧島れいか)を寝取ったことで、どこか対等か上に立ったような気分にさえなっている。

その彼が家福の車の中で、夜の道を走りながら、音が語った禍々しい夢の続きを家福に告げるシーンがある。

家福からすれば、取るに足らない「偽物」の人物、そして妻を寝取った男でもある高槻が、剥き出しの心で向き合ってくる本物の迫力の前に、家福は打ちのめされる。

夜に浮かび上がっていた高槻の涙ぐんでいるような、怒りに燃えているような光る瞳が忘れがたい。

 

その後物語は急速に展開していく。現実と劇中劇がパラレルに、共に静かに昂っていく流れが見事で引き込まれた。脚本の妙。

一転、ラストは韓国で一人暮らすみさきが真っ赤なサーブに乗って、広々とした真っ直ぐな道を疾走していく。

孤独な自由の爽快感が詰まった素晴らしい幕切れだった。