続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

辻仁成さんの日記

このところ、ブログを書くことが難しいなと感じている。

私は良いこともそうでないこともひどく忘れっぽいから、先々読み返したらきっと色々思い出して面白かろうくらいの気持ちで、気負わず正直に、気が済むように書いているのだけど、最近はどうにも気乗りがせず、ちょっと書いても続かず、結局途中で消してしまうことが多いし、書いてもどこかもやもやをすっきり言語化できた感がない。

 

ひとつには授乳生活ゆえ、いつも寝不足で疲れてぼーーっとしているからであるが、それよりも大きい理由は多分、最近友達に教えてもらって読むようになった辻仁成さんの「滞仏日記」(JINSEI STORIES | Design Stories)のせいである。

すごい日記。読んでいて本当にすごいなあと圧倒される。毎日休みなくこれだけの物量で、これだけの読みごたえがあって。私には全然関係ない人の、遠いフランスの空の下のささやかな暮らしの中の悲喜こもごもなのに、なんでだろう励まされる。

あまりの筆力の差に自分が虫けらのように思えてしまうということももちろんあるんだけど、「辻さんが書いてくれるからいいや」という変な感想と共に、なんか書く気が失せている。

ま、それもそれでいいか。

 

有名無名に関わらず、この人の言葉を聴きたいという人たちが何人もいる。

それは、どういう人たちかと私なりに考えてみると、まず、「自分の生き難さをなんとか克服するために」自分の頭で深くものを考え、学ぶことが生きることな人。ダメな所や葛藤も含めて、出し惜しみせず、自分をさらけ出して正直に生きている、表裏の少ない人。

そして、一般的に語られる範囲よりずっと長い歴史的な時間軸や幅広い複数の分野の見識から考えを導き出している。悪い意味での「専門家」でない。

また、人をVIPと非VIPに分けたり、横柄だったり、人を見下す人でないことも重要なポイントだ。

要は、その人の考えが正しいとか考え方が合う合わないとかよりも、人としての「姿勢」に魅力を感じているのだなとこうして書いてみて改めて思う。

辻仁成さんの日記はとても有名みたいで、たくさんの読者がいるそうだけど、私自身はこれまで彼の音楽を聴いたこともなければ、小説を読んだこともなかった。

これからも楽しみに日記を読むと思う。読みきれないほど更新が早いけれど。

また言葉を聴きたい人が一人増えて嬉しい。

 

しばらく前の辻さんの日記で「なぜあなたの日記は面白いのでしょう?」とビジネスで出会った相手に尋ねられ、彼はこう答えていた。

「あの、実はみんな同じような凄い出来事を毎日経験しています。

ただ、意外と人生の凄さに気づいていません。素通りしている。

育児、家事、夫婦喧嘩、親子喧嘩、進学問題、就職問題、老後問題、更年期障害、鬱気味の日々、これらは大作が書けるほどのテーマ性を持っています。

日常というのは、時に、大事な出来事にブラインドをかけてしまいます。

だから、その都度、ぼくは立ち止まり、自分に降りかかった出来事を考察し、ひも解き、過去の記憶と結び付け、世界情勢と絡め、コロナ禍との関係も見極め、未来の世界の在り方まで空想しながら、小さな読み物にしているのです。

読者の皆さんには、日記であり、小説のようでもあり、エッセイでもある、と説明していますが、根本にあるのは全部、ぼくが経験し、感じたことです。

ただ、ぼくが言いたいことをぼくの人生の中で凝縮し、拡大し、活字にすると、見えていたものと少し違う世界が生まれるという仕組みです。

息子の靴下に開いた穴から、ぼくと息子の関係、歴史、親子の在り方が読めるでしょう。反発もあるでしょうが、同じか、それ以上に、共感もあり、感動もあるでしょう。それが作家の仕事だからです。
どんな風にでも書けますよ。つまり、人間はある一方向からしか見なければ、ある人にはそれしか映りません。

でも、ちょっと角度を変えると同じ人間が別人に映ります。

政治、愛、憎しみ、など様々なものをそこにあてはめることが可能な書き方なのです」(滞仏日記2021/9/8より引用)

 

ここには日記の極意、というか彼の人生の極意が語られていると思う。

人の人生は、表面的にはカラフルだったり非カラフルだったり色々あるわけだが、とどのつまりその人が何を感じられるか、味わえるかが全てなんだと思う。

その深みや優しさの振れ幅が、辻さんの書く文章はすごく大きい。文章が上手いとか下手とかいうより、感受性の差に打ちのめされて、同時に読むだけで満たされて、書く気が失せているのだと思う。それほど素直で、エモーショナルだ。

生きる幸せとは、何をするか、何を得るかではなくて、それをどれだけ面白く、深く感じられるかどうかに尽きる。

どんだけ恵まれていても、人間はすぐ慣れて、見えなくなってしまうし感じられなくなってしまい、失った時に気づく生き物だからだ。

 

感受性を常に生き生きさせていることは、いつだって自分の生きる上での何よりの望みと思う。

でも、赤ん坊が生まれた頃に比べて、気がつけばすっかりくたびれて、体の不調も相まって、随分感情が錆びついてきたように思う。もどかしい。

それというのも、末っ子が日に日にパワーアップし、とにかくたえず動き回り、危ないこととか汚いことにまっしぐらに向かい、大声で自分を主張するようになっているので、心を無にして対応する時間がどうしても増えるわけである。

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3人目こそゆとりを持って、と思うけど、やっぱり子育ては限界を要求するなー。どこかの雑誌のように美しいことには一切ならない。

この頃は、髪ぼさぼさで薄汚れた格好でひたすら目の前のことに対応し、だんなさんともケンカしがちで、まあ余裕がないこと。 

それでも、ゆうたの時のような「一つも記憶がない」レベルのてんやわんやではなく、毎日ふと我に返っては、あああなーんて可愛いんだー!とギューすることはなんとかかんとかできている。

せめて死守したいが、この先のパワーアップぶりと末っ子の性質いかんで最後の砦もあっさり崩れるかもしれない(泣)。母さん、自信がないっす。

 

心が無になって、一つも言葉が出てこなくなったとしても、こうしてリアルタイムで日々更新される辻さんのすばらしい日記を読めることはとても贅沢で、幸せなことだなと思う。