続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「ブスの自信の持ち方」

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2019年/山崎ナオコーラ著/誠文堂新光社

 

山崎ナオコーラさんの本を初めて読んだのだけど、すごく刺激的で面白い本だった。

私は自分の感情に引きずられてしまいがちで、著者のような洞察力はもとより、このような聡明な公平さはとても持ち合わせていないのだけど、方向性としては自分の基本姿勢と似ていると感じた。

その場で上手に喋るのではなく、後々一人でじっくり、納得が行くまでものを考えたい感じ、たとえ場に水を差しても、気まずい真実をあえて口にしていきたい感じ、共感や多数派を疑い、心の中に湧き上がった違和感から目を逸らしたくないというこだわり。

こういう姿勢って、スマートでにこやかに軋轢なくスムースにやって行きたいタイプの人から見ると、さぞ面倒くさく、根暗感があり、うっとおしかろうと思う。

でも、私からすると、面白いことはここにある、ここにしかないという気持ち。

 

著者は、作家としてデビューして以来悩まされ続けた「世間にブスと中傷される現象」を入り口に、ルッキズムジェンダーといった社会における差別について考え抜いてきた。本書では、その思索がいろんな角度から丁寧に語られている。

 

それにしても始め「ブス」という単語が用いられたタイトルにどきっとした。でも、ここまで「ブス」にまつわる現象に心を開いてまっすぐに向き合い、素晴らしい視点を幾つも提示され、自省したり考えさせられるということを一冊分じっくりやってみると、今、読む前よりブスという言葉に慣れて、怖くなくなっていることに気付く。

そうか、私はブスという言葉を怖がっていたのか。それは、ブスの定義やブスにまつわるいろいろな事象はなんとなく空気が決めていて、曖昧だからこそ強固で動かしがたい価値観になっていて、結果、この言葉がやみくもに加害的な言葉として機能していたことに気付かされる。

この本はブスにまつわる現象の化けの皮を剥いでくれた。それによってもうブスという呼称があんまり怖くなくなった。これって何気にすごいことなんじゃないかな。この本の持つ、そもそもを考え抜くことで呪いを解く力はあなどれないものだ。

それは僭越ながら私がこのブログでやりたいこととも重なっている。もちろん書くことが好きだから書いているだけで、普段とりたてて意識しているわけではないけど、私にも「言葉を使って意識を=社会を少し変えたい」という思いはあると思う。

 

本書における山崎さんの基本姿勢で一番尊敬したのが、なんとなくうやむやにそれらしく思われている物事の偽物性や詐欺性を、ぐっと一段深く考えてつまびらかにすることで、差別や対立の本質をシンプルに、勇気をもって指摘する姿勢だ。

また、被害の当事者としての心の痛みやトラウマをベースに被害者意識で物事を語ることをせず、特定の誰かを悪者にすることで溜飲を下さず、立場の異なる他者の気持ちも考えながらやはり本質を見ていく姿勢だ。

賢く、寛容で、誠実でないとできないことだと思う。

うじうじ悩む格好悪い自分、かつて間違った自分も隠さず今の思想に繋がる過程として率直に、自分を突き放して書いている姿勢も格好良すぎる。

 

皆、なんとなくこれなら賛同される、非難はされないであろうということだけを書きたいものだ。そこまでの自信や覚悟がないから。

自分の考えは自分だけのものであり、それが自分の矜持であり、自分だけが正しい訳ではないということも踏まえている。そこまで腑に落ちている。

人には、考え抜くことで得られる強さがあるんだなあと思い、勇気付けられる思いがした。

 

本書が指摘する差別の構造、その作用や思い込みについては、表現の的確さにいちいち唸らされ、たくさん気付かされた。心にメモしておきたいことは書ききれないくらい。

中でも一部のフェミニストに対して自分が漠然と抱いてきた「基本的には賛成だし、気持ちもわかるんだが何か躊躇がある」その違和感の理由が分かったことなどは収穫であった。

それは、例えば男性が強者で女性が弱者と固定して語ることへの違和感。本当は、性別に関わらず、誰もがいろいろな要素で強者になったり弱者になったりしている。フェミニストは女性の地位の低さを問題にするが、著者は「性差を強調する社会」が苦しいと思っている。

また、性犯罪に遭ったために男性全般に恐怖心を持ってしまう人がいるのは理解できるし(私もその傾向あるし)、痴漢犯罪者はほとんどが男性という現状もあれど、男性という属性全体に対して「犯罪者の可能性のある者」という考えで接する、男性全体に反省しろと迫ったり排除することは、やはりフェアではない、してはならないと思うという考え。

性別で一括りに語り「男憎し」というところへ行ってしまうと、結局被害者意識でやられたからやり返すの応酬にしかならないし、どちらがより辛いかを競う水掛け論になってしまう。

ブスとわらい、罵る男はいる。けれどもこだわりなく接し、一緒に怒り考えてくれる男もいるし、ブスを差別する女だっている。ブスと罵る人は「ほら、あすこにブスの敵である美人がいますよー」と指差し、ブスと美人をいがみ合わせ、自分は安全な場所に隠れて好きなことを悪気なく言い続ける。男全体や美人が敵なのではなく、「差別し、煽り、いじめをする人と、人々をそうさせる社会」が敵なのだし、美人だって美人という属性で一括りに決めつけられる差別を様々なシーンで受けているのだ、と著者は言う。

 

つまり本書は「属性で一括りに語ることの罠」について書かれている本だとも言える。

属性、特性、個性には本来絶対的な優劣はないはずなのに、社会思想のバイアスによって、あるいは多数派であるかどうかによって「正しい・間違っている」「優れている・劣っている」と関係のない人が勝手に規定し、ジャッジする。その価値観が社会に深く内面化すると、本当は社会の圧によって「このように思え、身の程を知ってこう振る舞え」と圧をかけられているのに、あたかも「本人由来のコンプレックス」であるかのように本人にも誤って認識されるようになる。差別され、痛めつけられる側が、自分を責めて悩む。

いろいろな差別に、この構造が当てはまる。

でも、本当は、どう思うか振る舞うかはその人の自由なのだ。その要素や属性がその人にとって重要か、そんなに重要でないかも人それぞれで、克服に向かって努力する自由もあるが、興味を持たない、何もしない自由もある。それは怠惰ではない。

 

私が自分を「ブス」と書くのは、自虐でもコンプレックスでもないということだ。

自虐で笑いを取ろうと思ったり、キャラ作りをしたいと考えたりして「ブス」と書いているのではない。社会がおかしいと憤って書いている。

私は、コンプレックスに悩んでいるのではない。罵詈雑言を受けたことで悩んだ。仕事の妨害が辛かった。いじめだと感じた。私がだめなのではなく、悪口を言う人がおかしいと思った。だから、自分が変わるよりも、社会を変えたいと考えた。

この考えに全面的に賛同したい。

自分も、何か理不尽な対応をされて傷ついたり、不利益をこうむったり、腹を立てたりした時に、「あなたが気にしすぎなのではないか」「こういう風に考え方を変えてみたらどうだろう」「こんな努力でこれを獲得すればもう文句は言われない」みたいなアドバイスをたびたび受けてきた。

つまり、そう感じる「あなたがおかしい、足りない」ので直すべき、あるいはもっと強くなるべき、もっとスペックをあげるべき。

皆、良かれと思って言っている。大抵の理不尽な差別は「社会」というラスボスにつながっているから、個人の力では状況を変えられない。だから自分を変えるしかないと思っていることのあらわれだ。

でも、そんなんおかしいだろ。

いじめたり、排除したり、笑ったりする人がおかしい。自分がおかしいのではなく、社会がおかしい。

長年染み付いたくせで、気が付くとつい卑屈になってしまうのだけど、これからもいつも忘れたくない考えだ。

 

 

本書も 坂口恭平の「躁鬱大学」も、根っこにある意識はとても共通しているなあと思う。

それは、多数派がつつがなく行くために少数派を犠牲にすることを良しとする社会はもう嫌だ、資本主義にとって都合が良い特定のスペックやライフスタイルだけを人生の成功や解とするという浅い価値観に踊らされて生きるのはもうやめたいという強い思いだ。

 

多数派は、なんとなく多数派だから自分たちが正しいと思っている。しかし、多数派は効率が良いというだけで、実は正しいということとは全然関係がない。

資本主義は、いろんな目くらましをして人を騙して、効率のために、皆が同じものを欲望する社会を作った。でも、何がその人を幸福にするのかは一人ひとり全然違うのが当たり前で、正しいも正しくないも、上も下もない。人の数だけその人なりの解ややり方があり、その人が思うように生きようとする自由は最大限尊重されるべきである。 

 

近年、様々な分野の少数派、これまで黙らされてきた側が声をあげるということが同時多発的に起こっている。これは人々の気づきのあらわれなんだと思う。

とても良い兆候だ。