続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「大坂なおみ」②

心に残ったもう一つの箇所は、第二話の最後、彼女のモノローグだ。

Honesty, tennis is not necessory for anything.

I'm doing it. Like I love doing it,but there's more important things in the world.

正直に言って、テニスはこの世に必要なものではない。

私はテニスが大好き、でも世界にはより重要なことがある。 

彼女のように若く、全てを犠牲にしてテニスに打ち込んできて、その分野でトップを極めているにもかかわらず、こういう言葉が出るところに、彼女の知性と視野の広さがよくあらわれていると思う。

 

数日前、あるサッカー選手がオリンピック有観客試合を訴えたインタビュー記事を読んだ。

「絶対子供達にいろんなものを与えられる」

「選手たちも命をかけて戦っている」

別段際立った問題発言とかではなく、日本においてはある種の定型句のような言い回しだ。

けれど私は、こういういかにも正論めいた言い方には注意が必要だと思う。

スポーツに対するそういう部分により注意深くなったのも、皮肉だけれど今回のオリンピックのおかげだと思う。

 

もちろん、その人にとって自分が打ち込むスポーツが命より大事だと思うなら、その考えは個人として尊重されるべきだとは思う。でも、批判をしたいわけではないんだけれど「子供達」とか「命をかけて」とかいうワードチョイスはやはり安易で抽象的なもので、こういうものをあんまり深く考えずに鵜呑みにすることは、何か全体主義的なものにつながっていくのじゃないかなという、ひやりとした感覚がある。

 

私は、感動は各々が自発的に感じるものであり、誰かに「さあ、これが感動です」与えられるものであって欲しくはないと思う。

当事者がどれだけ真剣であろうと、スポーツはあくまでゲームなのだから、子供たちのためとか国のためという言い方で、変に大仰に捉えすぎるのもやはり気持ちが悪いことだ。

プライベート・ジェットでつくろぐ大富豪のていで「国のために貢献できて光栄です」と満面の笑みを浮かべていたテニスのジョコビッチを見て、ほとんどビル・ゲイツと同じじゃんと思ってしまった自分がいた。

自分の才能を生かして、資本主義のシステムの中で総取りした勝者が、慈善的なことをして更に賞賛を得ようとしているさま。

 

そしてスポーツが、とりわけオリンピックや大きなお金の動くプロスポーツが、文字通り命をかけなければ成立しないものになってしまっていることは、個人的には狂ったことだと思っている。

それが死ぬほどやりたくてやりたくて、という人がやるのはもちろん本人の自由だが、「スポーツとは限界までやってこそ本筋だ」という考えが「スポーツは楽しく、心と体が健やかであるためにあるものだ」という考えよりも、広く信じられているのはやはり違うと思う。

どうしても人間は、どのみちやりすぎてしまう生き物なのだとは思うけれど。

 

昔、こんな話をだんなさんから聞いた。ブータン人男性と結婚した元同僚の話だ。

箱根駅伝を夫婦で見ていて、中継所でタスキを渡す時に例によって、死にそうになりながら、倒れ込みながら、皆して大騒ぎでタスキを次の人につなぐわけである。

感動が盛り上がる、箱根駅伝では必ず見る光景だ。

ブータン人のだんなさんはそれを見て、ひっくり返って大爆笑していた。奥さんはびっくりしてたしなめたのだけど、だんなさんはとにかく可笑しくてたまらなかったらしい。

別に人を馬鹿にするような人ではなく、礼儀正しく心優しい男性である。

ただ、駅伝をそこまで命をかけてやるものという共通認識がないために、あまりに滑稽なオーバーアクトに見えてしまったということだ。

こういうの、けしからんと言う人がいそうだなとは思うが、私はそうだよな、と深く共感したのであった。

箱根駅伝とか高校野球のあの過剰な責任感の感じって怖い。こけたり失敗したりしたら、一生申し訳なく思って引きずりそう・・・。

スポーツって良くも悪くも「その程度」のものだというバランス感覚は忘れないようにしたい。 でも、こうしてスポーツを「その程度」と書くことでさえ何か憚られる感覚がある。スポーツが紛れもなくイデオロギーであるということなんだと思う。

 

大坂なおみ選手は、テニスが何よりも重要なものだとは思っていない。

そして先の世代と決定的に違うのは、本質的に強欲じゃないということだ。

不可避的にこの人生になって、この道の成功者としてすでに進みすぎたから、今更変えることはできず、この人生で行くしかないと観念したと語っていた。

だったら「この自分」をどう生かし、役立てていくのか。この自分だからこそできることをしていくべきなんじゃないか。

それがBLMにまつわるアクションや父の祖国ハイチでのテニス学校設立や、今回のオリンピックの参加にも繋がっている。

 

以前、哲学者の國分功一郎さんが、自己責任について語ったときに、興味深いことを言っていた。

「責任」は英語でresponsibilityと言う。つまり、レスポンス、応答するということ。

日本における責任って、「自分の意思と選択でやったことなんだから自分で全部引き受けろ」という自己責任的な意味合いが強い。 

しかし、本来「責任」とは応答するということで、目の前で困っている人、助けてあげないといけない人などがいるときに、何か自分が答えなければいけないと感じて何かをする。それが与えられた責任を果たす、責任を取るという本来の意味合いである。

つまり、どこから来たかわからない応答責任を取るということ。

 

大坂さんの基本姿勢は、まさにresponsibilityを果たそうとするものだと感じる。

だから苦しいし、悩む。それをやることの意義をまず考える。黙っていた方が楽だし傷つかないけれど、やはりどうしてもやらなくちゃいけないんだと思う。

そういう彼女の姿勢が伝わるからこそ、彼女はリスペクトされているのだ。

作品中の、BLMに対する彼女の考えと責任ある言動は、この作品のハイライトだったと思う。彼女の真摯さと静かさにとても心動かされた。

 

一方、応答するべきなのに、応答しない人々がいる。

我々の国の首相は、まともに質問に答えない。自分の言葉を持たない。言質を取られないことが得策で、賢いことだとさえはき違えている。

追及されそうな場所には隠れて出てこない、ほとぼりご冷めるまで沈黙を決め込む。そういう権力者がこの国にはなんと多いことだろう。

そしてそういう人々はおしなべて、誰も育てず、自分さえ勝ち抜ければ後のことはどうでもよく、死ぬまで手放さない。強欲な人々だ。

だから、彼らは大坂さんとはあまりに真逆なのだ。

 

 

円谷幸吉選手の時代から連綿と続く、この国のスポーツに対する過剰で誤ったイデオロギーを、そろそろ本当にアップデートするべき時なのだと思う。自分にとって、今回の五輪はそれを考える良い機会になっている。

とはいえ、時代はすでに変わりつつある。

若い世代のアスリートの言葉を聞いていると、こうした欺瞞や間違った正義感に絡め取られず、淡々と自分のやるべきことをやっている姿勢が見えて、清々しい気持ちになる。

卓球の20歳の伊藤美誠選手は、最初から最後まで「自分を発揮できた」「めちゃめちゃ楽しかった」ということしか言っていなくて、大きな主語に一つも自分を重ね合わせていなかった。

スケボーの堀米選手もマイペースで面白いなあ、いいなあ。

大坂さんを含め、今後はこういう人たちが時代のロールモデルになっていくのだろう。