続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

7/13ポリタスTV②(声を上げ続けることの意味)

同番組でもう一つ、違う側面からオリンピックの問題についての重要な論点であると思った、高橋源一郎さんの話。

あまり知られていないがオリンピック憲章には「オリンピックから生じるすべての利益はIOCのものだ」と書いてある。私的な組織のイベントだということが。

皆、支持政党も経済や国防に対する考え方の違いも多々あろうと思います。しかしこのような(コロナ禍の)状況の中で、一般社会には厳しい規制を迫りながら、オリンピックという私的団体の、営利目的の行事だけが特権化されているというのは、誰が見てもおかしい。

我々の国では情報が公開されていない。統治者の意思が明確にされていない、というかおそらく意見がないんだろうと思う。これでは判断のしようがない。原発も、推進の是非というより情報公開がされないのが一番の問題です。

そこには専門家がいて、その知見を参考にしてなんらかの処遇が出る。僕らはそれを見ることができる。それが最低限。

だから、統治者が無能でも構わないんです、少なくとも専門家を使う能力さえあれば。

我々の国では、専門家が何かをしてもその結論がどのように採用されるのかが分からない。別に存在しているということです。現時点ではそのまま放置されています。

過去の日本軍のように結論が最初にあるので、専門家が何を言っても聞き流す。そのことに我々は不感症になってはいけないと思うんですね。

現時点での最適解が「開催をしないこと」ということでは、専門家の意見が一致している。なぜそれが採用されないのか?少なくともそのことを常に問い続けることで、問題を残し続けることはできるだろうと。

 

たとえ負けが込んでいてもなぜ政治運動や社会活動を地道に続けることが大事なのかという話も、とても大事だと思ったので、書き起こしておく。

こういう抗議活動は意味がないんじゃないかとよく言われる。どのみち政府は言うことを聞かないし。50年前、100年前もそういうことを言っていた。

つまり、何か社会を変えようと行動すると、「そんなことは意味ないよ」と言われるのが普通です

活動して成果が得られなければ意味がないんじゃないのってよくいう。政治活動にインプットとアウトプットがあると思っている。

しかし、ある政治活動や社会運動がどういう成果を生むかはわからない。

オリンピック中止のような直接的な成果とは別に、もっと長い射程で変わる場合もある。それは計算できないんです。

政治活動や社会運動は、言葉に置き換えられます。呼びかけるというのがすでに言葉ですから。

言葉を贈る、新しい言葉を作るということでもあり、創作や創造にも似ています

創作同様、今の人々だけでなく、50年後100年後の人々に通じるかもしれない。

 

不思議なもので、目の前の事実に傾注することで遠くに伝わっていく。僕は作家なので、それをいつもやっています。

目の前の作品を作らないとどうしようもない。でもそれがうまくできれば100年後にも伝わるかもしれない。

社会を変える、世界を変えるとは、そういうことだと思うんですね。

今すぐ変わらないからやめるということではなくって、今変えられなくても波のように伝わっていく歴史を僕らを知っているので。

 

50年前にはSNSはありませんでした。今僕らには、持ったばかりで使い道もよく分からない武器があります。

もちろんネガティブにも伝わるんですけど、それも含めて面白がる。あるいはとんでもないことに出合うという可能性も含めて、意見の異なる人も共に声を上げていくということでいいのではないか。

一番大切なのは、自分が持っている「おかしい」という感情。自分がこんな目に遭っていいはずがない、それはなぜだろう?

おかしいと思ったら、誰かにぶつけてみるかやってみる。そして目の前の現実が少し動くかどうか試してみる、ということから始めるのがいい。

今は無謀に飛び込むことをさせない無言の圧力や空気があるが、とりあえず飛び込んでみることも必要。その勘が鈍くなっているのが恐ろしい。

おかしいという気持ちがあるはずです。それがなくなったらおしまいなんで、おかしいという気持ちを大切にして前に進んでください。

最近になって自分がいかに無知かよく分かった。そうすると何もかもが目新しくて面白いんですよ。そうすると他の誰にも言えないような突飛な考えに繋がっていく。

それが大切なんです。違う考えまで行ったから連帯ができる。

同じ考えだから共感するというのは、そもそも間違っています。