続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「大豆田とわ子と三人の元夫」

関西テレビ放送 カンテレ

 「大豆田とわ子と三人の元夫」、毎週楽しかったな。楽しみに見ているドラマがあると、今日が何曜日か分かる。

今クールは「コントが始まる」も見ていて、こちらは中盤からかなりしんどかったがなんとか最後まで見れたのは、坂元ドラマとの対比で見る面白さもあったと思う。

 

坂元さんの脚本の一番好きなところは、普通に楽しく面白く、また意表をつく工夫を凝らしたエンタメの枠組みの中で、皆が縛られている、信じ込んでいる、あるいは大多数の人が気にも留めていない既存の価値観に光を当ててくるところだと思う。

今の時代を生きている中で、色々感じたり違和感を持ったりしたことに対する彼なりの思い。

それはある種のステートメントのように感じられる。一貫して譲れないもの。いつもそこに個人的にすごく共感するし、彼の作るものを信頼できると感じる。 

言うなればそれは「呪いを解く」ようなことだ。

もちろんそれはあらゆる分野における芸術家の仕事なんだけれども、地上波のテレビドラマという、最も敷居の低い大衆メディアでそれをやり続けていることの値打ちってわりにあると思う。

 

今回、一番好きだったシーンのひとつは、オダギリジョー演じる小鳥遊(たかなし)が、どうしてそこまで社長の命令に絶対服従なのかをとわ子に尋ねられた時の会話。

「(長年のヤングケアラーとしての生活が唐突に終わり、自分を見失っていた時に)社長は残り物のカレーを食わせてくれて、俺の下で働けと言ってくれた。無だった俺を拾ってくれた。だから社長の命令は絶対なんです」

という、一見それらしい人情風味エピソードに対して、

「なんて恩着せがましい!カレー1杯でそこまで人を閉じ込められるなら、カレー1杯で逃げ出せばいいんです」と、とわ子はきっぱりと言った。

 

「コント〜」では、ハルトの引きこもりの兄が「親の責任を引き受けるのは長男の仕事だ」と言ったり、ジュンペイが部活の後輩を大量に背後に引き連れて意中の人に告白したり、毒親であるシュンタの母親に対して、母親が死にそうだからといって何の謝罪も解決もないのにとにかく親を許せとみんなで説得したりしてしていた。

いちいち大声で泣いたり喚いたり叫んだりするのも苦手だった。

もちろん良いと思った箇所も色々あったけれど、このドラマの、熱血なノリでもって昭和の呪いをかけてくる感じは、ほんと罪深いなとたびたび感じた。

 

大豆田とわ子では、重要なシーンほどそれだけでは意味をなさないような断片的なセリフをとつとつと言い合っているだけだったり、何なら言葉自体がなかったりした。叫んで盛り上げるとか全編を通して一切なかったし、泣くのも絞り出すみたいな最小限の涙だった。分かりやすくドラマチックにしてくれるものに頼っていなかった。

 

「コント〜」は、『好きだけど才能のないことに対してどう人生との折り合いをつければいいのか』という点で「カルテット」と近いテーマを持つ作品。でも着地点はだいぶ違う。

 「カルテット」はもう5年前のドラマだけど、あのドラマが投げかけた問いを私は今でも折々考え続けている。それって何気にすごいことだなあと思う。

ちなみに「カルテット」では、すずめの父親が死にそうだからって病院の近くに行って、でもどうしても会いたくなくて苦しんでいるすずめに、巻さんは、家族だからって死に目に会わなくてもいいし、許さなくてもいいよ、一緒に帰ろう。ときっぱり言った。

忘れがたい素晴らしいシーンだった。

「コント〜」がシュンタの思いを無視して、みんなして「親なんだから、意地を張ると後で後悔するぞ」と言って親を許させようとしていたのとはだいぶ違う。

 

「大豆田とわ子」の軽妙な会話、楽しかった。くだらないことばかり言い合っていて、でもそれが結構それぞれの人を生かしている、救っている感じが好きだった。人生そういうもんだと思うから。

そして、これ少女漫画だなーと思って見ていた。とわ子は年を重ねて落ち着いた美人で、仕事ができて社会的地位もあり、でも少しも偉そうでなく気さくで温かい心を持ち、面倒見がよく思いやりがあって。いつもセンスの良い服に身を包んで、家もおしゃれで、めちゃめちゃ料理上手で、セクシーではなく男に媚びないけどモッテモテで、年頃の娘とも親友みたいな良好な関係を築いていて。更に愛すべきドジでおっちょこちょい。

こんな誰もが好感を持たざるを得ない完璧な人が現実にそうそういるわけがない。

そして、男たちはタイプは違えど皆物分かりの良い紳士で、皆彼女の意思を尊重して、ひたすら慕う完璧な脇役だった。何の生々しさもマッチョさもない。

もちろんあえてそういうキャラクター設定にしているのだと思う。

今の現実感覚にはない、皆がそこそこ裕福でおしゃれな90年代トレンディドラマ的なクラス感になっていることも、シビアな現実からしばし離れるための舞台装置なんだろう。今みたいにジリ貧で大変な時代に、人々はシリアスなものなど見たくない、笑いたい。

だから、卑近な現実を連想させることのない、おしゃれな都会のおとぎ話にしたのだと思う。

しかしその枠組みの中でも、やはり坂本さんのスピリットは散りばめられていて。

今作は、ジェンダー性的指向のこと、パワハラやセクハラや男性優遇の社会といった女性の生き難さについて描き、かつ女性がひとりで生きる良さもきつさも込みで、軽やかに自分の生き方を自分で選ぶ自立した女性像を示した。

 

従来の恋愛や結婚における女性の描かれ方の受け身感が、この作品には全然見られなかった。彼女を取り巻く男たちは、かぐや姫に求婚する貴族たちさながらに、それぞれに好条件を彼女に提示する。でも献身的な愛情も、若さと美貌も、高ステイタス高収入の仕事も、海外での裕福な暮らしも、とわ子の生き方を変えることはできなかった。とわ子自身の恋心さえも、彼女を妥協させることはなかった。

とわ子はあらゆる意味において獲得物としての女性性に馴染まないし、もっともらしさにも迎合しない。それも悲壮な覚悟で自分を貫くとかじゃなく、気負いなく、のほほーんと、自分に素直に生きてそうなっている。

 

日本の経済が上り調子だった頃に皆が無邪気に信じていたような、幸せとはどちらも欲しい、全部欲しい、高スペックを目指すことだというイデオロギーからは大豆田とわ子というキャラクターは生まれ得ない。一寸先は闇だし、努力は報われ難いからこそ、自分にとって納得性のある選択をどれだけできるかが全てだ。


ほとんどの女が男性優位社会で男のサポートメンバーとして生きるしかなかった時代から、「大豆田とわ子」をレアな特別枠ではなく、皆が普通に共感する存在としてドラマが語るところまで来たんだなと思うとなんか感慨深い。


さらに最終回を見て、とわ子にとって唯一かけがえのない存在はかごめだったのかも、という論点はなかなか考えがいのある視点だなと思ったり。またぼちぼち考えたい。


いずれにしても、この可愛らしいドラマが少なくない人の意識を静かに変えていくきっかけにきっとなっていく。地味に影響力あると思う。