続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

我が家の発達系男子、「発達系女子とモラハラ男」

5月の半ばだけれど、このところ、もう梅雨みたいな天気が続いている。

空気がじっとりして気温より蒸し暑く感じるし、2日前のパンにカビが生えた。

気候変動は本当に深刻。昨年もハリケーンや寒波や山火事など色々あったけれど、今年はどんな自然災害が世界中で起こるだろう。

 

朝、ゆうたをヒステリックに怒ってしまった。

こちらにも言い分はあるけれど、もろもろの齟齬は彼のASD傾向によって引き起こされていることだから、ただ正論をガンガン指摘し続けても意味がないのだ。

自分も子供の時に散々大人からそういう目に遭ってきて、そんな風に怒られたことがひとつも教訓にならなかった人間なのに、気がつけば同じことを自分の子供にしている。自分の怒りをぶっつけている。情けない。

 

ゆうたはしょんぼりしたまま高校へ行ってしまった。

言ってどうなることでもないけれど、「さっき言い過ぎた、ごめん」とLINEしたら、「約束のネバーランド」のキャラクターが〈大丈夫〉と言っているスタンプが返ってきた。慈愛に満ちた男の子の笑顔のイラストを見て、更に落ち込む。

 

だんなさんから勧められて、今この本を読んでいる。家族を考える上ですごく参考になって面白い。

発達系女子とモラハラ男──傷つけ合うふたりの処方箋 | 鈴木大介, 漫画 いのうえさきこ |本 | 通販 | Amazon

重い発達障害を抱える妻との暮らしの大変さで被害者意識でいっぱいになり、散々妻を正論でガンガン責め立ててきた著者は、自身が脳梗塞による高次脳機能障害になることによって、初めて同様の症状を持つ妻の発達障害脳について理解することになる。

これまでのモラハラぶりを猛省し、改めて妻と共に生きていくために、夫が徹底的に妻の特性を研究し、対策し、共存の道を模索する日々を綴った本で、とても面白くかつ実践的な一冊だ。

 

我が家は定型夫、発達系妻、発達系男子、定型女子、不明赤ん坊という構成である。

私自身は、大人になるに従って年齢なりに落ち着いて、(あくまで主観的な感覚だが)少しは脳のキャパシティーも増え、自分の特徴を学んで知り、何より今のだんなさんと生活を共にすることによって、精神的に救われたし、生き方のコツも見よう見まねで学んで、昔よりだいぶ多方面にわたって生き難さが軽減されてはいる。

 

しかし、ゆうたはまだまだ自分を客観的に見る術を知らなくて、見るからに無防備、無計画。自身の発達障害傾向について知識を持つことを促しても、説教のように感じられるみたいで、何より音楽や自分の好きなこと以外は全部面倒臭くて、知ろうともしない。

自分は自分でやっていくのも、もちろん彼がよければそれでいいんだけど、平和主義者で優しくて、いつも人恋しいのに友達と言える人がいないこととかは、少し不憫だったりする。

どうして自分がそうなのか、どうして自分が誰かを突然激しく怒らせたり、話を聞いてもらえなかったり、時に疎んじられるのかを、彼はほとんど分からないのだろう、昔の私がそうだったように。

そして、それは自分の性格が悪いからではけしてないということも分からないだろう。

 

でもとにかく私としては、この本の発達系奥さんの症状や傾向を具体的に知り、それについて著者の鈴木さんが立てた作戦を知ることは、奥さんと共通の傾向をもつゆうたや自分自身にも当然応用可能。

ここまでロジカルに考え抜くことが自分ではなかなかできないので、シェアしてくれてありがとう、めっちゃ役立つ!と感謝の気持ち。

 

のみならず、発達系の人間と共同生活することは、定型の人にとってどんなストレスや困難があるのか、だんなさんが日頃どんな我慢をしてくれているのかということもこの本を通して少しは知ることができるし、中でも女性の生理についての男性からの考察は、これまでにない視点のもので、すごく興味深く読んだ。

私はどちらかというと体が頑丈で、生理も軽い方の人間だが、おっちんは毎月まる2日動けない。フリースクールも塾も毎回休んでひたすらベッドで寝ている。

毎回社会参加できないくらいに生理が重いということは、ライフスタイルに完全に影響を及ぼす。だいいち、会社勤めができない。生理が重い人は、すごく日常生活で無理解を受けながら我慢を重ねているのだし、程度の差こそあれ、生き方を生理によって変えざるを得ないんだ、そういうことを改めて考えるきっかけにもなった。

 

そしてそれは、生理だけではなく、色々な人それぞれの事情、つまり自身や家族の病やあらゆる障害、社会的事情、あらゆる差別事案において同じことだろう。

その事情がある為に、一般社会でつつがなく生活することができない人は、実はたくさん、たくさんいるのだが、それを社会は基本的に振り捨てているのだということ。

 

確実に一定以上の効率を生む存在として人間が恒常的に機能するという仮定に基づいて今の社会は制度設計されているが、それはあらゆる弱者をまるっと切り捨てる、あるいはいない者とする、すごく雑で暴力的な体制なのだ。

今、世の中で起こっている分断や自殺の増加や、逆にマイノリティー当事者が黙ることをやめて次々に声をあげている流れは、資本主義が極まって、人間を故障しない機械みたいに思って、労働者を限界まで搾取しようとする資本家/権力者の吝嗇すぎる姿勢があまりにもあからさまになったことで、いろいろな分野での破綻がより激しく可視化されていることのあらわれなんだと思う。

 

話がだんだん大きくなったが、ともあれ。

せっかく縁あって家族になったのだし、我が子は大好きで幸せに生きて欲しいのだから、損なうようなことはできるだけ減らしたいし、できる限りの工夫を重ね、良い関係でありたいと心から思う。

こんな自分をいつも許して家族でいてくれる人たちのために、自分を含めた家族研究の日々は続く。

それにしても、子供に対しては、自分が何かできるとか導けるとか、そんな大それたことはほぼ思えない。彼らの持ち前の素晴らしさをくじかず、できるだけ害しない存在になれるように。いつだってそれ一点。