続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

中浜さんは私だ

今クールは珍しく週に3つも楽しみに見ているTVドラマがある。ちょっと楽しい。

その中の一つ「コントが始まる」は、今の若者が何をよすがに人生を生きて行けばいいのかについての今日的な、大事なエッセンスが含まれている作品だと思う。

先日、この作品を中3の娘氏と見ていて、考えさせられたことがあった。

 

この作品でとりわけ重要なのは有村架純演じる中浜さんという、今の時代の落とし子のような、ある種のサイレント・マジョリティーを丁寧に描いていることだと私は思う。

また、自分にはもうひとつ分からない「推し」に対する切実な感覚、今年の芥川賞受賞作「推し、燃ゆ」もそうだが、「推しと生きがい」って、今の時代を考える上ですごく大きなファクターなんだろうなと興味を持っている。

彼女の推しに対する偏愛や不器用な生真面目さを茶化したり軽んじたりしない描き方がとてもいいなと思うし、中浜さんを愛おしいなと感じる。

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3話で中浜さんが過去を吐露するシーンがある。

中浜さんはひとことめに「言われたことはまじめに一所懸命やる方です。」とことわってから話し出したのだった。

そして「言われたことをまじめに一所懸命がんばってきた」結果、中浜さんは恋人から二股をかけられて捨てられ、会社ではていよく他人の過失を肩代わりし、汚名を着せられ、組織にいられなくなって排除された。

私は何か悪いことをしたのだっけ?なんで私はこんなに軽んじられ、ゴミ箱みたいな扱いを受けているのだっけ?どこで何が間違ってこうなってしまったんだろう。

「頑張ったからこうなったのか、頑張り方が間違っていたのか、もう、何が何だか分かんなくなっちゃって。今もがんばるのが怖いんです。でもね、頑張らないのは寂しいんです。何かを頑張らないという選択肢がこれまでの人生になかったから」

 

言われたことをまじめにがんばって取り組む。それが、中浜さんが自分を語る上で一番誇れることだったということに胸が痛む。それは取りも直さず今の日本の少なくない若者にとっての矜持なのだと思うし、それが今のこの国の学校教育の「成果」なのだ、良くも悪くも。

 

子供たちは、学校や家庭や塾やスポーツといった子供たちにとっての社会全方位から、「言われたことをまじめにきちんと、早くミスなくやる」ということばかりを、矢継ぎ早に要求され続ける。

教師やコーチは子供にそうしてもらえると集団を御しやすくて、自分の評価も上がってありがたいのだし、親はリスクを最小化すると世の中的に信じられている行動を子供が取っていてくれれば、(本当は何の保証もないのだけれど)自分が不安を感じず安心していられる。

でも大人たちは、自分たちが支配しやすいから、自分が不安を感じたくないから言われた通りにしろとは当然言わない。

むしろ色々な正当化のロジックを採用して、意識の上では良かれと思ってやっているから、自覚薄く深く考えず、自明のことと思っている向きもあると思う。

大人たちは、それが「人として正しくて立派な行いだから言われた通りやるべきだ」と言う。

本当は、自分のために子供たちをコントロールしているのに。

 

大人の言うことになまじっか適応できてしまう子ほど、するするとそのままの価値観で進んで行ってしまうので、のちのちの被害は深刻になる。

ずっと他者に人生の手綱を預けて「言われたことを褒められるように愚直にがんばる」で成立する人生で最後まで行ければそれはそれでいいのかもしれないが、そういう人ばかりではない。

中浜さんのように、刷り込まれた方程式が破綻してしまう人も多くいる。

 

怖いのは、その時に彼らは自分の努力が足りなかったためにこうなったと自責する方向へ行きがちなことだ。自分に刷り込まれた価値観が、ある特定の方向に誘導する意図を持ったある種のプロパガンダであることにはなかなかその場では気づけない。

でも以前、オザケンが言っていた。「学校で植え付けられてきた価値観は減点法だからみんな間違えるのが怖いんだけれど、リアルな世界は、実は結構加点法で動いている」さすがいいこと言うなあ。

 

 

 ドラマを一緒に見ていた娘氏は、おもむろに一時停止ボタンを押して「中浜さんは私だし、学校のみんなも中浜さんなんだ。学校を離れてこれだけ時間が経って、ようやく分かったんだよ」と言った。

「わたしには、中浜さんの気持ちがすごく分かる。わたしも小学校の時から誉められたくてがんばってきた。そうすれば自分の居場所があるって思えたし、認められて安心できた。

でも、中学校になって、これまでのように言われたことを全部きちんとやるにはあまりにも時間が足りなくなって、いきった男子には悪態をつかれて連帯責任は取らされるし、威圧的な先生や面白くなさすぎる授業、忙しくて本当に疲れてしまってだんだん眠りたいしか考えられなくなって。

もう無理ってなって、がんばるのをやめたら、何にも手元に残らなかったことにびっくりした。ずっとがんばってきたのに、やめた瞬間こんなに何にも残らないものなのかって」

 

「今思えば、わたしは先生にとって都合の良い存在として使われていたんだなと思う」と、娘氏はしみじみと言った。「わたしって、本当に便利な子だったんだと思うよ」

先生は、娘氏のようなまじめで物分かりの良い女の子たちに自分がやるべき仕事を少なからず肩代わりさせていたと思う。

小学校の頃から、授業についていけない子の隣に座って世話をする決まりみたいになっていた時もあるし、掃除リーダーだの、合唱大会のリーダーだのになってさぼる子やまじめに取り組まない子に注意して、参加させる役割を任されたりもしていた。

それらのことは、先生からは名誉なことみたいに言われて、頑張って先生の期待に応えなくちゃと本人も思っていた。

娘氏から、大変だし色々うまくいかないことがあるという話を聞いても、私は「色々任されてすごいねー」とか適当なことを言っていた。

 こうして書いてみると、分かりやすすぎる「やりがい搾取」だと思う。

 

不登校の子供たちって、発達障害などの個性を持つ子を含め、多かれ少なかれ中学校が要求することをきちんとこなすことに相当無理があって、ついていけないくなった子供たちだ。

中浜さんを見ていると、娘氏に早い段階でその破綻が訪れたことは、むしろ僥倖のようにも思われてくる。

 

「学校を離れて1年以上経ってみて、あそこがどんな場所だったか、自分が奪われたものが何かがやっと客観的に分かってきた。当然のようにあの中にいると、まずはなんとか適応しようとしか考えないし、変な先生も変なルールも、それを変だということに気が付けないんだよね」と、娘氏は言っていた。

彼女は離れて気付くことができた。でも、あそこにいるみんなは気付かない。だんだん沈んで、頭のてっぺんまで沼に埋まって身動きが取れなくなっても多分気付かないんだよ。

 

「水泳の授業で、みんなで同じ方向にぐるぐると歩いて人力で流れるプールを作るっていうのをやるんだよ。わたしにとって、学校のイメージってあんな感じ。

皆が同じ方向に向かうと強い流れができて、立ち止まってみても止まれない、ただおろおろと流されていく。端に必死にしがみついて、なんとか水から這い上がったみたいな気持ち」

 

 

良い学校や教師はたくさんいると思うし、娘氏の先生の中にも良い人たちはいた。皆ができることを可能な限りやろうとしてくれていることは承知の上で、でも結果として、今の公立中学校という場所は、基本子供が自分の頭でものを考え、主体的に行動する力を奪う場所のように私には見える。 

 

あのまま頑張っていたら多分中浜さんみたいになっていたと思う、と娘氏は言った。

彼女は、規定のレールから外れることで、自分にとって大切なものを取り戻すことができたんだろうか。

娘氏にとって何が良くて何が良くないか、正直言って正解は分からないけれど、笑って、悔いなくいられる方を、その都度話し合いながら、じりじり考えて選んで行くしかないのかなと思っている。

 

ともあれ、今後も毎週中浜さんの幸せを願いながら楽しみに見続ける。