続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

踏まれた足とは ②

 【自己責任の思想について】

児童が妊娠するということへの受け止めの軽さと並んで、私が受け入れがたいと感じたもうひとつの点は、内面化された自己責任論、自立についての認識だ。

誰も友達の人生の責任は取れないんですよ。もちろん未成年だから、保護者の責任はあるんだけど、それは最低限の生存のための保護であって、実は親も先生も人生の責任をとってくれるわけではないんですよ。友達自身が気づいて成長していかないといけないの。それが自立っていうんです。 

この前段には「友達は全く悪くない、ただ若い、そして環境に恵まれなかっただけ」という記述があり、個人の問題に矮小化するべきではないと言っているように聞こえる。しかし、結局その後に「他人は口出しすべきでない」「大きなお世話になるかも」「無自覚に相手の幸せを願いながら破壊しちゃう人っているんです」と重ねて手足を縛りながら、彼女が自力でサバイブしなければならないと書いている。

つまり彼は、この友達がこういう家庭に生まれ、こういう状況にあるのはいわば運命であり、他人をあてにせず自分で道を切り拓いていくしかないんだと言っている。

 

幡野さんだけが特別なのではなく、こういう語り口は、もう本当にたくさん世の中に溢れている。

ある種の正論というか現実論だと思うし、一理あるとは思う。けれど、私はもうこの「自己責任」の語り口をこれ以上聞かされたくはないという気持ちになっている。

頼むからやめて欲しい。もうこういう世界観に基づいて生きていたくない。

 

今自分が事あるごとに考えている長期的なテーマは、「性」と「自己責任」。今回の回答はまさにそこについて言及したくなる内容だったので、何かを書かずにはいられなかったんだと思う。

 

「自己責任」とか「自助」は、自分にとってはもはや呪いの言葉だ。

この傾向が行き過ぎていることで、今この国ではどんどん人が死んでいるじゃないかと思わずにはいられないのだ。

 

先日も昨年11月に早朝のバス停のベンチで「邪魔だ」と殴られて亡くなってしまった大林三佐子さんの事件が大きく取り沙汰されていた。聞いていて、とても平常心ではいられなかった。全く他人事ではなく、ほんの少しのさじ加減で誰もがこの状況に陥る可能性がある今の厳しい自己責任の世の中が心から怖いと思った。

 

自立って、本当に「人に頼らず自力でなんとかする」ということを指すのだろうか?

 私が思い出したのは、熊谷晋一郎さんの話。

何にも依存せずに生きている人なんて誰もいなくて、誰もがさまざまなものに依存して生きている。そのことを本人が自覚していないだけだ。

自立とは、必要な複数のサービスやケアを十分受けることができていて、それらに少しずつ依存できていることで、かえって何にも依存していないように感じられる状態のことを指すのだ、という話。

 

依存しているように見える人とは、依存先を少ししか持っていない人のことだ、と熊谷さんは言う。選択肢がほとんどないために、ひとつの依存先に全面的に依存することになる。時にそれは相手にとって受け止めきれない依存度になり、問題化してしまう。

自立とは、多くの人が無理ない範囲で少しずつ関わっている状態。そしてそれは分野に応じて互いに頼る側頼られる側がスイッチしたりもする。

 

現状が実現できているとはもちろん言い難いけれど、その思想の方がずっと豊かだなと私は思う。がんばりがいがある。

 

大人が子供に、この世界はどういう場所なんだと語るのか。

どんな世界が本来か、どこを目指して、何を日々の行動指針にするべきなのか。

できていないのに偉そうなことを言っている。

けれど、私のじいちゃんばあちゃんが私に見せてくれたように、なるたけ「こうありたい」に向かって地道に生きることで、不完全ではあっても自分なりの「一本筋を通す」ことで、子供にdecencyを伝えたいという思いはある。

その時に、自分の中のベースになる思想に「自己責任」は極力採用したくない。

 

昨日は、忌野清志郎の13回目の命日だった。

今でも忘れられない、彼が亡くなった13年前、テレビで追悼番組を見ていて、最後にキヨシローは画面に向かってすごい笑顔でこう言った。

「大人になるって、楽しいぜ!」

私はすごくびっくりして、胸がつかれて、涙が噴き出た。

なんて素晴らしい大人なんだろうと思った。すっかり押しも押されぬおばさんになった今でも、足元にも及ばないが、かくありたいなと思っている。

 

(続)