続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面」森達也著

 U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面 (講談社現代新書) | 森達也 | ノンフィクション | Kindleストア | Amazon

相模原事件に関する本は何冊か読んできたけれど、本書はさすが森達也さんらしいアプローチ。それは、正義というバイアス越しに物事を見ず、けれどヒューマニティから乖離せず、本質を追求する姿勢。この本が提示する視点を、忘れず持ち続けていたい。

 

前半部分は、主に日本の司法制度の瑕疵と、死刑制度および精神鑑定と発達障害の関係、そして日本人特有の本質など別に見たくなくて臭いものにはさっさと蓋をしたいという心性についてなどの考察。

こうしたものが絡み合った構造が司法やマスコミの論調に影響し、いわゆる「異常犯罪」の犯人たちを、検証もないままに葬り去った。そしてまた新たに植松聖が葬り去られようとしている。

宮崎勤も、麻原彰晃も、そして植松聖も、明らかに精神疾患を患っていたことは、直接関わった誰もが内心わかっていた。そうでありながら、司法は少し調べれば簡単に露呈するような虚偽さえ含んだ、破綻した内容の精神鑑定を採用してまで人格障害ないしは自己愛性パーソナリティ障害と認定した。責任能力あり、ゆえに死刑。

つまり、彼らは稀にみる邪悪で異常な悪魔のような人物で、私たち普通の人とは全然違う。異常な人が起こした異常な犯罪と結論づけて、死刑にしてさっさと終わらせたい。どうしてこんなことが起こったかはどうせ理解しえないし、見たくもない。 

 

後半部分では植松聖とは何者なのか、彼の行動原理と相模原事件の動機について触れられている。

 重要なのは、植松はサイコパスや反社会性パーソナリティー障害ではない、双極性障害にも当てはまらない。のみならず、植松は主体的な意味における差別主義者や優生思想の持ち主でもなく、強い憎しみをもって犯行に及んだのではないという指摘。

(ちなみに、弁護団の主張した「大麻精神病」つまり大麻によって心神喪失したという論理はナンセンスで、大麻単体でそんなことになる人がいないことは日本の外では広く知られている常識レベルの事実である。)

 

彼が一貫してこだわり、殺害の基準としたのは、その人が社会にとって役にたつか立たないかという彼なりの合理性や社会的効率。つまり「意識の疎通の有無(〈心失者〉かどうか)」。

また植松自身、〈社会にとって役に立たない〉障害者を殺害することによって、社会の役に立つ人間になりたいという承認欲求を持っていた。裏返すと今の自分では社会の役に立っていないという劣等感を持っていたということである。

 

植松は、トランプや安倍政権に強く共感していた。彼らに共通する特徴は、理想や建前(ポリティカル・コレクトネス)に対する違和感の表明、身もふたもない手前勝手で下劣な本音をあたかも正直で率直とみなす幼稚なスタンスである。

トランプや安倍政権の与党政治家たちは、権力の座にある者が大声でアンチポリコレ的な言説を言いつのれば、それは同調圧力を形成し、一定の支持を得られることを予測して計算づくでそれをやっている訳で、基本は自らの権力維持や人気取りを最優先しているだけの幼児的な独裁的志向の人々である。

けれど盲目的な支持者はそのアンチポリコレ的な振る舞いを、未熟な独裁者を通じて正当化してしまう。すごく悪い意味で素直というか、浅はかで単純なのだ。

 

植松にもこの薄っぺらい短絡的な素直さがあり、同様の行動原理を採用していると思われる。

つまり自分自身は別段、障害者に対する強い憎しみはないが、社会全体のためにあるいは社会にとって役に立つ自分であるために「障害者なんて社会の役に立たないのだからいない方がいい」というアンチポリコレな世の中の本音を正直に率直に意思表明し、行動に移すことで、多くの人の支持を得たい、きっと得られると、単純に無邪気に考えた。

 

森さんは植松をミノムシと表現する。

自らは深く何も考えないまま、身の回りにある素材を寄せ集めて自らのアイデンティティを形成する。コアは空虚で、ほんとうに譲れない自分の世界観や 矜持、つまり思想が存在しない。

彼の考えはつぎはぎだらけの借り物なので、結果的に障害者排除へのこだわりもぐらつき、次第に「社会にとって役に立つ/立たない」という基準だけに収斂していった。

しかも圧倒的に考えが足りない、無知である。彼の造語である〈心失者〉の定義は、情けないほど雑で表面しか見ていない幼稚な基準である。

 

ただ、同時に、彼の雑な基準を私たちは胸を張って全否定できない。現実にはむしろそこがうやむやな例は社会にはいくつもある。例えば胎児が22週未満は命とは見なさない出生前診断と人工妊娠中絶の法律の仕組み、脳死判定の基準。

「意識のない人」をどう定義し、どう考えるのかは非常に微妙で難しい問題で、皆そこを曖昧にしたまま目を逸らしている。

 

そして、植松がかつてスタッフとして働いていたやまゆり園では、入所者への虐待や不適切な支援が横行していたし、それはやまゆり園だけでなく全国の障害者施設で横断的に見られる問題である。

人里離れた山間部に隔離されるようにして集められた障害者たちが、(もちろん皆ではない、良い職員もたくさんいる)蔑視され差別され、ぞんざいだったり暴力的な扱いを職員たちから日常的に、当たり前のように受け続けているさまを、植松はスタッフの一人として目の当たりにしてきた。その経験が犯行のひとつの動機になったことを植松自身が告白している。

 

 

社会は、異常な人間が起こした異常な犯罪ということにして切り捨ててしまいたい。けれど、この事件はそうじゃない。ここを考えない限り、程度の差こそあれ、同じことが繰り返されていくだけだ。

 

植松は特殊な邪悪さを持った特異な人ではなくて、むしろ自分自身のオリジナルな考えなんてろくになくて、複数の誰かの言説をかき集めてそれをあたかも自分の思想みたいに思い違いをしている。

彼がまとったミノムシの衣は、今私たちの社会に漂っている空気である。

そこに漂っているのは、障害者差別、移民やマイノリティーへのヘイト、女性蔑視やドメスティックバイオレンスといった、表立って主張されない抑圧された「本音」。

表立っては言わないが、誰もが多かれ少なかれ社会の不平等や差別を内心で容認する心を持っていることを植松は確信して、多くの人々がきっと自分を支持してくれると信じていた。

 

植松に37回接見した神奈川新聞石川記者は、この事件を総括して「彼の起こした事件あるいは彼の発した言葉が、本人の思惑を超えて結果として彼にとって都合の良い解釈になりながら社会に伝わってしまった気がする」と本書の中で語っている。

(石川)「僕はやっぱりそれほど高度なことを彼は考えていないと思っていて、・・・寂しかったのかなと思うんです。人に認められたいとか褒められたいとか、そういう思いが強かったんじゃないかなって考えることがあるんです。でも社会はそう解釈しないし、彼自身もそうは思われたくない。」

(森)「だから思想や信条をくっつける」

(石川)「でもそれは後付けです」

 

 

あなたが願っているのはこういうことだよね、これ、いいでしょう?

植松はまっすぐ相手の目を覗き込むようにして、そう言っている。

 

私はとても重苦しさを感じる。自分の中にある差別や蔑視の感情、頭でっかちな正義感、信念のようなものは果たして信念と言えるほどのものなんだろうか?そういうことを突きつけられている気がする。