続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

トランプとトランプを支持する人々について思うこと

先述の「町山智浩アメリカの今を知るテレビ」は、低予算のシンプルな作りの番組だけど、毎回現地取材と、自らインタビューをした情報がベースになっている。

日本のニュースショーは、もはや第一次情報のメディアとは言えなくなっているので、基本を普通にやっている番組が新鮮に感じられるという逆転現象。

 

この番組の一番面白いところは、加害者側を含めた当事者の声を直接届けることを重視しているところ。Black lives matterだったら白人至上主義者たちやそのリーダーに、今回の襲撃事件だったらプラウドボーイズやQアノンに、直接マイクを向けたりリモートで話を聞いたりして、彼らがどんな考えの元にそのような行動を起こしたかを、彼らの生身の言葉で伝える。

それを見ていて気付かされたり考えさせられることは多い。何より、自分が「おそらくこうなんだろうな」と思っていたことは大抵覆されるので、他者について直接聞かずして分かったような気になっていることって、必ず間違いを含んでいるのだなということを毎回実感する。

 

ここ最近はBlack lives matterやコロナ禍やトランプと大統領選を巡る事件を中心に毎週見ていたけど、まあ今のアメリカがフィクションよりもフィクションめいていて、どんなリアリティーショーもかなわないくらいの強力なコメディを国ぐるみで展開しているという感じだった。

遠くの国の他人事というだけではなく、日本で今自分が置かれている状況と重ね合わせて見る部分も多々ある。

 

トランプとトランプを支持する人々について、今感じていることをまとめておく。

今回のアメリカの政権交代に関するVTRで一番印象に残ったのは、あるトランプ信者がマイクに向かって叫んだひとこと。「ヒラリーは、俺たちのことを『あの惨めな人たち』と言ったんだ」

この言葉は、いろんなことを象徴していると思う。

 

町山さんがトランプを支持する層には「トランプ支持者」と「トランプ信者」がいる、と言っていた。ここは分けて考えなければならないすごく大事なポイントだと思う。

 

トランプ支持者は、富裕層や権力者に都合の良い自由を叫ぶリバタリアンであるトランプの施策によって受益している人たち。

トランプ政権の間に、更なる経済格差を拡げないために企業に課されていた規制はなくなり、温室効果ガスの削減を含めた環境保護規制も撤廃し、法人税の税率を下げ、相続税は大幅削減、非課税になった。

これで実際に受益するのは主に「上位1%」の裕福なビジネスマンたち。彼らはトランプが下品でも醜悪でも、自分に得をもたらしてくれるバカならそれでいいのだ、と考えている。

日本でも、安倍政治を支持する経団連の上層部などは、同じ人種といえるんだろう。

 

一方トランプ信者は、トランプの掲げるポピュリズムにすがった、新自由主義にすっかり搾り取られ、これからも浮上することが難しいであろう主に非都市部在住の裕福でない人たち。

「あなたたちをもう『忘れられた人』にはしない」とトランプは演説で言い、彼らは赤い野球帽をかぶって熱狂した。本当にトランプが自分たちを救う政策を実現するのかということは、この際脇に置かれた。

だって、彼らに他の選択肢はなかったのだから。

 

これまでずっと、政治は全て彼らの頭ごしに行われてきた。中央にいる上品で裕福で賢そうな人たちがいかにも正しそうなことを会議して決めて、彼らはおおむねまるでいない人みたいに扱われてきた。

初の黒人の大統領になったバラク・オバマは、よく通る美しい声で、ハンサムな外見と魅力的なスピーチで、うっとりするような理想、正義が勝つ世界への展望を語ったけれども、やっぱりそれはどこか遠くで行われている金持ちだけのパーティーみたいなことには変わりがなかった。

地べたで日々を生きる、おしゃれでも上品でもない社会の下層に属する人々はやっぱり「まるでいない人たち」のままだった。

暮らしも大して変わらなかったし、誰も彼らを気にかけることはなかった。貧富の差は順調に拡大し続けた。

オバマになったことで、かえって人々の怒りのやり場はどこにもなくなってしまったともいえる。

 

そういうこと全てに絶望し、言語化する術を持たない人々が、あのあけすけでルサンチマンに満ちた人物を大統領に押し上げたのだと思う。

トランプ自身はもちろん、多くの人が言うようにサイコパスだろうし、利用できると踏んで貧しい白人たちを政治的に利用したんであるが、同時にトランプは大金持ちで経済は全然異なるのだが、ある側面においては彼らと共通するものを持っていた。

トランプという人に内在する「世界に対する復讐心」に、人々は共鳴したのだと感じる。

 

今回の大統領選の顛末を見ていて、トランプのあの引き際の醜さや、全てをつぎ込んで台無しにしても諦めない必死なさまは、もはや金とか政治とかではないなと感じた。

彼は全存在をかけて、世界に自分の存在を認めさせたいのだと思った。自分のような者がいていいのだと、世界に認めさせたい。そう見えた。

 

 

トランプは、マッチョイズムの塊のような父親に「男なら絶対に負けを認めるな」と言われて育ってきた人。

必死にその鋳型に自分をはめて、自らを鼓舞して育てられた環境の価値観を素直に内面化して生きて、自らの努力で「成功」したことが彼のアイデンティティーとなった。

トランプ自身は極端に振れすぎてはいるけれど、ある意味一つの時代を象徴する男性像であったが、こうしたマッチョな男性たちは、時代が変わるにつれて彼の根幹をなす価値観について間違いを認めて罪を償うよう迫られるようになった。

かつてはオーケーであり、称賛さえされていたことが、いつの間にか逆転して、どうしようもない人間だと非難されるようになった。

 

町山さんが「トランプ信者は、荒唐無稽な陰謀論にすがってまで、どうしても負けを認めない人が多いのが特徴だと思う」と語っていたけれど、トランプ信者とは言い換えると、かつては堂々と自分の価値観を謳歌して生きてきたが、いつの間にか「いてはだめな人」「間違った旧い価値観の持ち主」と非難されるに至った人々という共通点を持っている人が少なくないのではなかろうかと思う。

 

もちろん、虐げられてきた人々が声を持ったことは全くもって正当で良いことだと思う。差別とはある種の無自覚と無知であるから、「悪気はなかったから仕方ない」では済まされず、一旦そのことが俎上に載った以上、誰かを犠牲にして成立する価値観は反省して認識を改めるのが当然だし、償うのも当然。

ただ、誰しも元々の人格がなにも邪悪で身勝手だったから「そのような人」になったという訳ではなくて、その時代を生き抜くためにそうなった、それなりのいきさつを持っているのだということは忘れてはいけないと思う。

 

人は誰しも生き抜くために様々のことを選択している。その人のパーソナリティーはその人なりの生存戦略が結実したものである。親や時代に要請され、刷り込まれてそのような人生にだんだんなっていった、誰しもがそれなりの理由があってその人になっている。 

もちろん、自分なりの学びや努力で自分の人生をいかようにも善く生きることはできる。どんないきさつがあったにせよ、やってきたことが免罪される訳でもない。

けれど、全てが自己責任な訳でもない。

 

そして、どんどん正しさで人を追い詰めても、その先に平和な解決はないことはあらゆる歴史が証明している。

必ず復讐の火種が残る。

それが暴力であろうが、逆に正義であろうが、力づくで自分の思うように相手をねじ伏せ、ポルポトみたいに皆殺しにして見ても、必ずやりきれるものではなくて、「いつか見ていろ」と復讐を心に抱える者は残る。

 

だから、すっきりきっぱりとした解決法はあくまで一時的なもので、長期的には戦いの応酬が延々と続くことになるだけだ。

スター・ウォーズ」みたいに。

 

ディスタンクシオンの解説で、岸先生が社会学の肝である「他者の合理性」の話をしていた。

「あなたと同じような行動や選択をすることはなくても、なぜあなたがそう行動したのか、やむにやまれぬ事情でそうなったんだということを理解はできる」ということ。

あるいは、「あなたのことや考えは好きにはなれないが、あなたが存在する権利は死守する」ということ。

 

そういう地点で考えの異なる者同士が向き合う場を持てた時、初めて一歩が踏み出せるのだろうと思う。

今のアメリカのように「悪を駆逐した、正義を取り戻した」と喜び、セレブで集まってお祝いしているうちは、また同じことの繰り返しが続くのだと思う。

 

ただ、そういう意味においてはジョー・バイデンという人は期待ができるのかなと思っている。これまで常に共和党とのネゴシエーション役をしてきた人物であり、強烈なカリスマや強いリーダーシップはなく、物事を言い切らず、謝罪することができる。

個人的にはリーダーは「すごい人」でなくてもいいと思っている。チーム全体が有能であればいいのだから。

トランプや安倍や菅のように、自分より有能な人を排除したり、イエスマンで周りを固めるような器の小さな人でなければ、別にすごくなくて全然いいんだと思う。

 

言葉足らずで、うまく言えなかったけれど。

とにかく、イデオロギーではなくて、いかに不平等を是正していけるか、お金より命を大事に考えられるかが鍵と思う。