続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

さらに覚書

さらに覚書。

資本主義(キャピタリズム)について。

今、アメリカで起こっていることはイデオロギーの戦いという側面はむしろ副次的で、根底には許容しがたいほどに拡がった激しい経済格差と不平等感、1%の者に富を集中させるための完成された搾取のシステムに対する絶望的ともいえる深い怒りがあって、それがいろんな形を取り、飛び火したり歪められたりしつつ、あらゆるところで噴出しているというように見える。

 

あらゆるものを「これは自分のものである」と囲い、独占し、それを使用するには金を払えという、そういう資本主義のやり方は極まり、今では水さえ公共のものではなくなってしまった。

どう資本主義を終わらせて、どうコモン(公共)を作り、増やしていけるかは、アメリカに限らない世界の問題と思う。

 

民主主義(デモクラシー)について。

人間は長期的なスパンで物事を見る目を失ってしまい、すごく短期的に物事を捉えるようになった。誰もがこれまでの蓄積を簡単に捨て、忘れて、人治で一気呵成に物事を変えようとする。

独裁者の強欲もレジスタンスの正義に酔い自らを無謬に思う傲慢さも、人間が謙虚さをすっかり失ってしまっているという点では同じで、これまで長い時間をかけて築き上げてきたルールや智慧を反故にする。自分こそは特別だと思って、ルール破りもやむを得ずと言って破壊する。

 

だから、アメリカの民主党が急激に勢いづき、トランプをなんとか再起不能なまでに追い込もうとしている動きに懸念を感じる。こういう時こそ法にのっとって粛々と進めるのが大事で、勢いに乗ってルールを変えるようなことにはなってほしくないという気持ち。

 

例えば日本では、今自民党がルール破りを繰り返して、権力さえあればなんでも通る、無法地帯みたいなことになっているが、遡るとそのルール改変を始めたのは民主党政権だったというが少なからずあることに気づく。

小選挙区制も、「事業仕分け」のような超法規的な枠組みも「自分たちこそが正義の名の下に改革するのだ」というある種の強引さの元に制度設計され、それが結果的に後年自民党による悪用的な運用に応用されることに繋がってしまっている。

 

一旦規制緩和されたりルールが壊されたりして、歯止めになるのは倫理だけになってしまえば、必然的にやった者勝ちで、恥知らずが跋扈することになってしまう。

いつも善意の人がそのルールを運用するとは限らない。時には独裁的な人だって必ず出てくるのは当たり前のことなのに、長期的な視点が欠落してその場の権力の全能感が支配してしまうために、簡単な想像力すら前提からなくなってしまう。

だから、人間は必ず罪を犯すものだという前提に立って制度は設計されなければならない。今はむしろ、種子法など、悪用を前提に作られている法律も少なくないわけだが。

 

 

 

最近、長い時間軸で物事を考えたくて、資本主義と民主主義を歴史の軸から捉え直すものに触れている。

つくづくと思うのは、人間て基本的に全員愚かで間違うし、増長するし暴走するんだということ。どこにも全てを解決するような完璧に清く正しく強い人はいない。これまでもいなかったし、これからもいない。だからこそ世界は今こうなっている。

完璧なヒーローなんて絶対にいないから、そういう存在を望んでも絶対に得られない。誰にも委ねることはできない。不完全な人間が寄り集まって知恵を出し合ってやっていくしかないのが人間の民主主義の社会。

 

今、過去に対するリスペクトがなく、自分の力で全部きれいさっぱり変えてしまいたいという短絡がある。それは傲慢で無知なんだと思う。

 

As rowing a boat floating on the lake, people are going into the future backwards.
The eyes of the just past of the landscape, is no one knows tomorrow of scenery.

Paul Valéry(1871−1945)

湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく。
目に映るのは過去の風景ばかり、明日の景色は誰も知らない。

ポール・ヴァレリー(1871〜1945)

 

資本主義も民主主義も、過去をしっかり見据えて死者に敬意を払うことで、これからどうすればいいかを考えるという視点を持ちたい。