続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

コロナ禍の師走、自分の薬

赤ん坊の世話に追われ、クリスマス感などまったく感じないままに年末に突入している。宅配の生協を2つ駆使してスーパーにも最低限しか行かないし、関東圏でこれだけコロナの感染者数が急増していると、ほんとうに出足が鈍る。

数日前、実家の母とも話して、当分帰省は無理だねということに。後期高齢者で要介護度で難病の父がいるので、仕方がない。

暖かくなってコロナが落ち着いたらということにしよう、と。

でも、落ち着いたと言える時って来るのだろうか?

 

日本には皆が共有できるような基準がないから、行動規範もない。

こういう風に行動して、こういう場所には行かないでなど、いろんな正しそうな指示が場当たり的に出てくるんだけど、人々の命と健康よりも優先するものに配慮した情報になっているので、コメディみたいに馬鹿げた、本末転倒なことを大真面目で語ることになる。

 

食べ物を口にするたびにマスクを着けたり外したりを延々と繰り返す奇妙すぎる「マスク会食」の勧め、そもそもGOTO EATをはじめとした政府の施策を愚策だとは言えないからそういうおかしなことになっている。

行ってはいけない場所も夜の街やらライブハウスやらパチンコやら、そりゃそうでしょうけれども、満員電車とは絶対言わない。

そんな一貫性のないご都合主義なことを上から言われても誰も納得できないだろうし、基準がぐだぐだすぎて実際どうしていいかも分からない。

 

だから、大学入試で各大学がディスタンスにアクリル板など、細心の注意を払ってやっていますというニュースを見ても、でもその大学にみんな満員電車に乗って行くんでしょうが、と普通に思う。

結局、自分のところでクラスターを出さないこと、なんなら「私はやることやってるので、私のせいではないです」というポーズをアピールしておくことが目的化している。

どんなに本来的なことから離れていこうが、馬鹿げていると内心思っていようが、政治がなんの責任も負わず、何かあったら自己責任として世間に糾弾される世の中である以上、個人が自己防衛するためにはそうするしかない。

 

おかしいことをおかしいよね、と言うことに、もうほとほと疲れてしまっている。

そんな中で「こんにちは、ガースーです」とか見せられて、あまりのことに白目になり、静かに頭から追いやるのみ。

 

森達也さんが「もしドイツのメルケルが『こんにちは、メルケルです、にやにや』とやったらと想像してみてほしい。いかにこれが異様なことか分かるだろう」と書いていた。それはもう、怒りを通り越して人々は狂ったかと思ってぞっとすることだろう。

こんな総理大臣でも「あーあ」程度で、大して怒りもしない私たちの不思議。

いや、私は内心めちゃくちゃ怒っているけれど、やり場のない怒りにこれ以上削られたくないので、あまり考えないようにしている。

 

いずれにしても、今回のコロナ禍を通じて世界中の政治が分かりやすく比較検討されるという経験を通して、日本って良くも悪くも独特な国であるということを痛感することになった。

日本は民主主義ではないというか、急ごしらえのつぎはぎだらけのはりぼての形だけの民主主義であり、個人主義は日本人の心性にはけしてマッチしないものであり、欧米と比べるのも目指すのも違うんだろうなと。

 

今回、コロナでこれだけ政治が酷くてもこの程度の被害にとどまっていることや世界中で資本主義が完全に行き詰まっている状況を鑑みても、悪い部分だけでなく他にはない特徴を見出し、この国独自のソリューションを模索していくということなんだろうなと思う。

ただし、現状どうして被害が少ないのかについて説得力のある検証はされていないし、相変わらず場当たり的なことが繰り返されているばかりなので、今のおじいさんたちが入れ替わらないうちは望みは薄いが。

 

しかし、彼らがもう何十年も生きられない以上、確実に入れ替わる。

アメリカで、既得権益と高齢者を支持基盤とする共和党が今後避けがたく先細り、若者とリベラルが支持する民主党と入れ替わっていくという予測がされているのと同じで、既得権益と高齢者の党である自民党も避けがたく先細るだろう。

彼らはあまりにも「自分たちさえ良ければいい」を隠さず、あからさまに収奪しすぎているのだから。

同性婚が絆を壊すなんてことをごり押しする人々は、もはや全体の代表者とは言えないもの。驕れる者は久からず。

 

私たち30〜40代、殊に1970年〜1984年生まれの就職氷河期世代は、全体としてみれば、どうにも割りを食った世代ということになるんだろうなと思っている。

団塊の世代が常にマジョリティーであり、その存在に常に頭を押さえつけられたまま人生の大半を過ごすことになった世代。

 

思うところは色々あれど、これから私に出来る一番の仕事は、自分の頭で考えることのできる次世代を支援することなんだろうなと思っている。我が家の3人の子供たち。たくましく、ハッピーに、自由に泳いでいくように。

そのために私自身もますます自分の頭で考え、しぶとくわがままに、自分も他人も自由を尊重して日々暮らしを暮らしながら精進していきたい。

 

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予定が少ないのが心地よいということを心底知ってしまって、健康に懸念がない範囲でもうずっと家にいたいという感覚になっている。お散歩に行くのは好き。

空いた時間に赤ちゃん周りのものの裁縫を始めた。何年かぶりにミシン体制も整えた。さしあたってはよだれかけがたくさん必要である。

 

何かの本などにある作品をきちんと完成度高く作ろう、と思うとぶきっちょな自分は最終的には「がっかり」で終わるんだけど、「それは自分の薬じゃない」と坂口恭平の言葉を読んでいて教えてもらった。

その本の作品を作った作家の作品は、その人にとっての薬であるが、その他の人にとっての薬は別だから、ただ真似するだけでは薬にはならない。

それぞれが自分の薬になるように作ることが肝要である。

 

それで、基本の技術を踏まえた上で、自分が気楽に考えたデザインで、そこらにあるものを利用して、それで思いがけないものが出来上がると、そこには失敗も比較もなく、ただ小さな「楽しいな」だけがある。

なるほど、料理でもなんでも、自分なりのしんどさや嫌さをうまく逃し、何かしらのオリジナリティーを付与するということが作ることの喜び、自分の薬につながっていくのだな。他の誰かの作ったものを、きちんと再現しようとするから減点法になるし、義務や苦行になるのだな。

 

なんでも気づくのが遅すぎる私だ。でも気付けて良かった。

不器用で肩に力が入って、気がつけば頑張っている。人に指摘されてもどう緩めれば良いか分からぬし、自分がリラックスしていないという自覚がまずない。

でもやっぱり自分は変な方向に頑張りがちなんだなと、こういう時はさすがに自覚する。

そして、年をとると頑張ろうとしても無理がきかぬので、自然とだんだん生きやすくなっているのは年をとることの善き側面である。

 

さて、これからだんなさんに赤ちゃんを見ておいてもらって、髪を切りに行く。

産後初めての美容院。