続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「ヒルビリーエレジー」からアメリカの今を考える

Glenn Close, Amy Adams serve Appalachian angst in first 'Hillbilly Elegy'  trailer - Flipboard

私にとってはとても響いた良作だったこの作品に吹き荒れている賛否両論について、自分なりに思うこと。

 

普段、映画でも本でもあまり批評って読まないのだが、自分が良いと思っただけに、高低差に興味をひかれていくつか批評を読んでみた。 

勉強不足でアメリカの政治的な内情をよく理解していないので、なるほどと思うところもあり、的外れな批判のための批判と思うところもあり。

そして、強い反発は心情的に無理からぬ部分もあるのかな、という感想を持った。

 

私も見終わった時に「ああ、いい映画だった」と思うと同時に「ハリウッドのエスタブリッシュメントの見本みたいなロン・ハワードが、こんな泥臭い世界のことをよく撮ったな」と驚き、「またストレートにアカデミー賞を狙ってきたよなあ〜」とは正直感じた。

 近年のアカデミー賞は、強い社会的メッセージを持った作品が明らかに優位に受賞する傾向があるからだ。

 

ヒルビリーエレジー」は、私も最近になって知った俗語であるレッドネック、あるいはホワイトウォッシュと呼ばれる貧困の白人層にスポットライトを当てている。

原作は、J.D.ヴァンスによる回顧録で、ニューヨークタイムズが「トランプ支持者を理解するための1冊」としても取り上げたベストセラー。まさに今のアメリカの世相を反映したタイムリーな題材といえる。

穿った見方をすれば、アカデミー賞にうってつけだと思ったろうな、と。

 

最高の題材に最高のキャスティング、大作を手堅く仕上げる一流監督という万全の布陣。しかし結果は「ただ白人を哀れに描いているだけで社会的背景が描かれていない」と酷評されることになった。

 

その理由として自分が感じたことは3つ。

ひとつは、今のアメリカの深く激しい分断の状況を鑑みるに、表現者は政治的に明確な立ち位置を迫られるのだと思う。どっちつかずの中立は卑怯と見なされてしまいそうな空気感がある。

原作から多くの人が期待したのは、アメリカの格差社会と分断の構造をあぶり出すような社会派ドラマだったが、作品は家族を描いた人間ドラマになった。

アカデミー賞を獲りたいがゆえに政治色を排除したという憶測もあるが、真意はわからない。

物語を社会でなく個人の物語としたことを矮小化と捉えれば「逃げ」なのかもしれないけど、私はむしろ普遍化だと感じながら見た。原作を先に読んでいたら、全く違う印象をもったかもしれないなと思う。

 

もうひとつは、原作者と監督の属性。

原作者のJ.D.ヴァンスは、白人貧困層ヒルビリー出身だが、勉学に励みイェール大学に進学して階層上昇を果たした「勝ち組」。

監督のロン・ハワードはハリウッドの裕福な俳優一家に生まれ育ち、俳優としても監督としても成功をおさめた恵まれたMr.ナイスガイ。

 

この映画、ラストにJ.Dの現在を実際の写真で短く紹介している。

ヒルビリーを脱出して、美しい妻や子供たちと弁護士の仕事に恵まれた笑顔のJ.D。おばあちゃんや、おそらくJ.Dのサポートもあって今では更生した母親のペヴについての短い紹介文も。

 作り手の意図としては、実際の人物と俳優の激似ぶりをぜひとも見せたかったろうし、悲惨な内実を晒すことになったJ.Dの家族の名誉のためにこのパートは添えられたのだろうと推測する。

 

けれど、このオチのつけ方は確かに問題だった。そもそもヒルビリーを後にして豊かでまっとうな生活を手にすることをハッピーエンドと規定してしまったら、自動的に後に残された人々は立つ瀬がなくなってしまう。

この作品を見たアメリカの多くの階級上昇できない庶民やあらゆる社会弱者にとっては、貧しく出口のない自らの苦しい人生をリアルに突きつけられ、その袋小路から脱出して良い暮らしを勝ち取った若者からエレジーをたむけられる、またそれを上流階級の白人が映画化して、その評価はハワード氏ものになる。

それは当然もやもやもするだろうよ、と思う。

 「勝ち組」の人々に高く安全な場所からわかったように語られ、憐れまれ、消費されていると感じた人々がこの作品に生理的嫌悪を感じるのは、背景を鑑みれば無理もないことなのかなと改めて思った。

自分はこのことに対して圧倒的に部外者だったので、この映画を純粋に家族の物語として見られたのだと思う。

 

映画に限らず、作り手に「その物語を語る資格があるのか」という視点と作品の価値とにどう折り合いをつけるのかは、時に難しい問題になる。

作品の価値とは切り分けて考えるべきだというのも正論だが、気持ちは分かる。

あの素晴らしい「フォレスト・ガンプ」の成り立ちを知った時はショックだったものなあ。

 

ここ10年で多くの社会派ドラマがオスカーを手にしたが、スティーブ・マックイーンの「それでも夜は明ける」、バリー・ジェンキンスの「ムーンライト」、マーティン・マクドナーの「スリービルボード」といった作品はいずれも作り手が当事者であると見なされた。これらの作品は諸手を挙げて賞賛された。

しかし成功した白人のコメディ監督であるピーター・ファレリーが監督した「グリーンブック」の受賞後の風当たりは結構強かったように思う。

 

ヒルビリー〜」が白人の貧困と差別を個人に即して見せた作品であるなら、「ムーンライト」は黒人の貧困と差別を個人に即して見せた作品。両者は似た構造を持った作品だったが、誰も「ムーンライト」には文句をつけなかった。

「ムーンライト」だってとてもパーソナルな作品で、社会構造を取り立てて描いたわけではなかった。

やはり感情のバイアスはある程度かかっているのではと感じてしまう。

 

そして3つめ、この作品が受け入れられ難かったのは、逆説的な言い方になるが、この作品の完成度が高かったからだと思う。

つまり、この作品が今のアメリカの庶民の現実を見る者に身も蓋もなく突き付けたからだと思う。

同じ「忘れられた白人」を描いても、イーストウッドならそこにヒロイズムという逃げ道を用意する。嫌な言い方をしてしまえば、一抹の誇りにすがれるように描いている。

ヒルビリー〜」では、ばあちゃんとJ.D以外の貧しい白人たちは、容易に環境に流され、深くものを考えない。見ていて悲しくなってくる。

本当は人間たいがいその程度のものなんだけれど、誰しも自分をそういう風には思いたくないのが人情。

 

高橋源一郎さんが「82年生まれ、キム・ジヨン」を評して、こんなことを言っていた。

「小説は、つらい現実を忘れてひとときの夢を見るために読むもの。見たくない現実を思い出させる、本当にリアルなことを突きつける小説は、作家からも評論家からも読者からも嫌われたりする。だから、この物語が多くの人に受け入れられたという事実がすごいことだなと思います」

それってこの映画にも言えることなのかもなと。

 

ヒルビリ〜」は、かつて冒険者だった白人たちが切り拓いたフロンティアであったアメリカという国に対する最後の幻想を叩き壊した映画なんだろうと思う。

 リベラルであろうがなかろうが、アメリカの白人たちが心のどこかに抱えているプライドに、多分すごく不快な形で触ってしまった。

もはや白人たちはこの国を牽引するマジョリティーではない。数字上ではとうに分かっていたことだけど、それは本音ではいまだ容認しがたい現実なんだということのあらわれのように感じた。

 

あくまで個人的な意見。