続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「私はあなたのニグロではない」

ポスター画像

2016年アメリカ・フランス・ベルギー・スイス合作/原題:I am not your negro/監督:ラウル・ベック/93分

 

有名無名の書き手がコラムやエッセイなどを掲載するプラットフォーム「cakes(ケイクス)」で、立て続けに炎上している件が気になっていた。

ひとつはある写真家によって連載されている人生相談で、夫にDVを受けている女性の相談に対する回答。彼は相談に答えるのではなく、相談者を大げさで嘘をついていると一方的に断罪した。

もうひとつは、あるライターがホームレスを取材し、彼らの暮らしを、異文化でクリエイティブなDIYスタイルという無邪気なオモシロという切り口で紹介した文章。

 

これらは、いずれも差別に対する認識と態度の未熟さを露呈している。

さらにこのプラットフォームの運営が、こうした内容を特に問題ないとして公にした(ホームレス取材の方はコンテスト受賞作品だった)、「気づかずスルーした」点が問題視されている。

 

既にたくさんの人々が言及しているので、内容に関してここで書こうとは思わない。

ただ、この映画(「私はあなたのニグロではない」)をこのタイミングでたまたま見ていたこともあって、自分も無謬ではない、誰しも他人事ではないという思いを強くしたということを大事に考えたいと思う。

 

簡単に単純な正義で批判したり、擁護したりすることも多々起こるが、一方で多様な論点から、「このことの何にモヤモヤするのか」についてを考え、言葉にする人がうわっと出てくる、それを多くの人が目にし、考えるというのは、私は基本、良いことだと思う。

大メディアのようにアウトプットに時間と分量の制限がなく、双方向で、すごく微妙なところに考えを深めていくやりとりも可視化されるのはネットの世界ならではの良さだと思う。物事を単純化するのと逆の流れ。

こじれることも含めてこうしたやりとりが、ジャンルを問わず、いろんな立場の人がはからずも問題を共有することに繋がり、意識のアップデートに役立っている側面は大いにあると思う。

 

 

 

この映画は、差別とは何かを、ものすごい気迫をもって問うた作品だ。

黒人への差別にとどまらない、人間の業というものに迫っている。

人種差別への抗議活動が盛んだった1960年代に、時代のヒーローだったキング牧師マルコムXらと親交のあったジェームズ・ボールドウィンという作家。彼は、友を立て続けに殺戮された悲しみや苦しみを抱えながら、持てる知性を総動員して、自身がアメリカで黒人として生きることに向き合い、思索している。

 

彼のまっすぐな本物の言葉には圧倒的な迫力がある。そして、自分を取り巻く環境にも、共通する要素は多々あると思う。

白人は純血を守るために黒人問題を作った。そのせいで罪を犯し怪物となり、蝕まれた。

黒人が何をしたとかしなかったからではない。

白人が身勝手にも「黒人という役割」を黒人に押し付けたせいだ。

黒人の憎しみの源は怒りだ。自分や子供たちの邪魔をされない限り、白人を憎んだりしない。

白人の憎しみの源は恐怖だ。なんの実体もない、自分の心が生み出した幻影に怯えているのだ。

この国は、視野を広げようとはしない。

アメリカでは、率直と誠実が美徳とされている。

その結果、幼さも美徳と見なされるようになった。

だからジョン・ウェインのように、映画の中で先住民を迫害した男も成長する必要がなかった。

テレビを見るたびに、アメリカ人のありように背筋の凍る思いがする。

娯楽番組を見て、人々は安心する。そして世界や自分に向き合う力を失っていく。

長い間、アメリカは栄えてきたがその蔭には何百万人もの犠牲がある。

なのに最大の恩恵を享受してきた人々は、その恩恵を「鼻につく」と感じ始めている。だが手放すこともできない。その上彼らは誰かが払った犠牲を想像できていない。

だから、黒人の反逆を理解できないのだ。

これは、国家や王国を滅亡に導く方程式だ。

王国は武力だけで維持できない。

権力者が思うほど、武力は万能ではない。

武力で強さを示すことはできない。

むしろ、弱みをさらし、動揺を悟られてしまう。

そして、相手の情熱に火をつけるのだ。

アメリカ人は、以前より幸せでも善人でもない。なのに、その現実を誰も認めない。

少年犯罪があとをたたない現状は、修正可能な計算ミスだと信じようとしている。無差別で残虐な事件が各都市で起きているが、ひと握りの異常者の犯行だと思っている。

燃える情熱や主義主張のない国民が増えているのは「協調性が高いからだ」と受け止めている。

現実から目を背けたい人は、こう言う。

「あなたは辛辣だ」

そうかもしれないし、違うかもしれない。辛辣だとしたら、それだけの理由はある。

最大の理由は盲目で臆病なアメリカ人が、「人生はバラ色」という振りをしていることだ。

危険なほど長い間この国には二つの層が存在していた。ひとつはゲイリー・クーパードリス・デイが象徴する、グロテスクなほど清らかなイメージだ。

もうひとつは、不可欠なのに目立たず、存在が否定されてきた層だ。

この二つの層が向き合ったことは一度もない。

私を私刑で殺したり、スラムに追いやれば、あなた自身が怪物になる。

その上、私を優位に立たせることになる。

あなたは目を逸らし、私はあなたを見る。

そしてあなたについて詳しくなるのだ。

 

ボールドウィンは、TV司会者に、なぜ黒人は悲観するのか?活躍している人気者の黒人は大勢いる。これだけ世の中が変わっても、まだ希望はない?と問われて、皮肉な笑顔で答える。

「希望はないと思っています。問題をすり替えている限りはね」

 

 

ボールドウィンは、差別の構造を彼の言葉で説いている。

差別の心は無知、それも、見たくない現実から目を背け、知ろうとしない傲慢で反知性的な無知を起点とする。

相手の苦しみや辛さに対する想像力と共感力の欠如。

そして恐怖と罪悪感が過剰な自己正当化につながる。

 

 

何もかもを知っている人はいないし、誰もに想像力と共感力をはたらかせることも難しいし、恐怖や罪悪感の全くない人もなかなかいない。

誰もが誰かを差別する心を内包しているということだ。

 

炎上している人を口をきわめて責めている人も、どれだけ気をつけて努力している人も、自分も誰かを差別し、傷つけないという保証はない。

むしろ、差別は自覚のないところにこそ、在る。

 

私をニガーだと思う人は、ニガーが必要な人だ。

白人は、自分の胸に聞いてほしい。

私は、ニガーではない。

白人がニガーを生み出したのです。

なんのために?

それを問うことができるなら、未来はあります。

 

差別には、気持ちの良い解決なぞありえない。カタルシスがあったとすれば、それはエゴである。

自分の至らなさや愚かさ、醜さを自覚して、じりじりと地道に冴えない気持ちを抱え、省み続けることだけが差別を少なくする。

ちっともすっきりしないし、さっぱりと単純化もできない。

エンドレスで面倒くさいから、誰しも投げ出したくなってしまうだろう。

 

そういう、割り切れない、忸怩たるものを抱えて、失敗を繰り返しながら、答えの出ない人生を生きていくことが成熟であり、大人になるということだというメッセージは、世の中に全然足りていないと思う。