続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

れいわの大西つねきさんに対する処分に思うこと(1)対話の未熟さ

今回の大西つねきさんの発言と、それに対するれいわ新選組の一連の反応を興味深く見ている。

特に、一昨日の党の記者会見と、それを受けての昨夜の大西さんの釈明会見は良くも悪くも予想を超えた内容で、今回の一件にとどまらない多くのことを考えさせられた。

 

 

二つのインパクトを感じたことについてまとめておきたい。

ここでは、内容の是非以前に、現状の私たちの社会における対話の技術がいかに未熟なのかについて自分が感じたことをまとめておく。以前書いた「場と個」の話にも通じるが。

 

日本的な対話のありようは、その場の多数派の空気に左右される非合理的でウェットなものであることを改めて強く感じた今回のことだった。

「みなまで言うな」という日本独特の言い回しにもある通り、この国では、言葉の一部を捉えて、全体を「つまりこういうことでしょう」と”察する”ことは、片手落ちではなく、賢さのように見なされる向きがある。

でも、それは正確には「受け取り手が相手の話をきちんと聞かず、自分の主観で勝手に解釈している」にすぎない。その人の察した内容が正しいなんて確証はどこにもない。

 

私たちの多くに自分たちの対話の作法の非合理性に対する自覚が少ない。読解力のなさに対しての省みる感覚が少ない。

そして、「一度醸成された空気は動かしがたいものであり、それには粛々と従うしかない」という、諦めとも処世術ともいうべきものに盲目的に服従している。

 

今回の、木村さんと舩後さんの声明文や記者会見の言葉を聞いていると、複雑な思いにとらわれた。

重度障害当事者として、死への距離が健常者よりも近い存在であるがゆえに、死に対してセンシティブになるのは当然のことだろうと思う。

けれど、大西さんが明らかに言及していない範疇にまで一方的に「それは全ての弱者について同じことである」と自分自身に引きつけて拡大解釈して、その解釈を当然の事実として断定し、「いや、そんなことは言っていないし思っていない」と大西さんが反論しても言い分に耳を貸すことなく「あなたは優生思想の持ち主だ」「あなたは人として驕っている」と一方的に決めつけ、決して許さないと断罪している。

どれだけ自分側が正しく無謬だと思っているのだろう、なんて大上段から堂々と正義を語るのだろう、と私はむしろ彼らに対して怖さを感じた。

 

障害当事者としての切迫した意識とそれゆえの揺るぎなさ。木村さんの声明(

https://eiko-kimura.jp/2020/07/15/activity/1053/)

の、障害者として自分が感じてきた実感に基づいた感情的な訴えは、彼女の主観的な感情であるがゆえに誰も否定はできない確かな説得力をもつ。本当にお辛かっただろうし、さぞ大変だったろうという思いにもかられる。

けれど、「命は大事」という誰にも反論できない広範すぎる正義を盾に、相手の言い分を一方的に自分の解釈したいように解釈し、一人の人を叩きのめすのは、すごく暴力的なことだ。

 

たしかに、大西さんが最初に発言した動画を見て、なんて雑なんだと私も思った。けれど、その後のレクチャーや弁明の機会で、大西さんの言い分を彼らは本当に「聞いた」んだろうか?

木村さん舩後さんの言いようでは、大西さんは本当に冷酷な人でなしみたいに聞こえるけれど、「私が全部間違っていました、改心して出直します」と涙ながらに土下座をするのが当然で、それ以外は許さないし受け入れない、という態度で彼を取り囲んでいた人々の怖い顔が眼に浮かぶ。

それは対話ではなくて、思想の強要だ。

 

あなたの感じ方はおかしい、あなたは自分ではわかっていないけれどそういう意識があるので私が教育し直してあげます。

自分の方が正しいと信じて疑わない人に、そういう風に接してこられた経験が私にもある。

そういう時の私の態度は、相手にとってはさぞ不遜に見えたことだろうな、と思う。

 

 

昨夜の大西さんの会見をそのままに聞いたら、彼なりに誠実に言葉を尽くして説明しようとしている姿勢は伝わる。(内容に関する個人的な思いは別立てで書く)

自民党の差別主義的な考えを隠さない政治家やヘイトスピーチをする人たちとは、当たり前だが全然違う考えであることは分かる。曲解や憶測を交えず、ただ聞けば。

 

でも、彼の本意に関してほとんど誰も考慮しようとはしない。太郎さんも会見の場で、レクチャー時に大西さんが何を語ったかについては言及なく、「彼は謝罪を撤回した」とのみ語り(暗に彼はいまだ「反省していない」というニュアンスを込めて)、「最初の動画で彼は確かにこう言った」ということに固執して、その後言ったことは言い訳にすぎないという態度だった。

 

昨日の大西さんの会見でも、何人もの記者が彼の「隠された悪意」をなんとか暴露してやろう、というような敵意を持った、罰するようなトーンで質問をしていた。

彼がなぜそのように考えているのかを紐解こう、理解しようというシンプルな姿勢を感じたのは、畠山さんというフリーランスの記者だけだった。

大西さんは相手を攻撃してやり込めようとしないし、自分の思うことを正直に言うのが大事で、相手を説得しようともしないので、質問の意図を見失っているような記者も何人かいた。

記者ですら、多数派にいるという立ち位置を確認し、その安心できる場所からものを言うのだな、それが日本なんだなと思った。

 

れいわの会見時、Youtubeのコメント欄には「除名処分しなければ支持をやめます!」という声が渦巻いていた。木村さんや舩後さんをはじめとした党員も、そういう態度だったろうことは想像にかたくなく、事態の収拾はそれをおいてないという状況だったのだろうと想像する。

仮に「彼の言い分にも一理あると思いませんか」などと言う人がいようものなら、怒り狂った人たちがその人を袋叩きにしそうな空気だった。

唯一、党員の安田さんという方は、多数派の空気に忖度しつつも、例外的に「正義」に拠った感情論から離れて意見していたと思う。http://nekoyasui.jp/archives/thought/1979

 

 

 

すごく難しい部分について言及していて、ちゃんと書けているか分からない。

でも、私は壁と卵があったら、卵の側に立ちたい。

大勢が一人を寄ってたかって抹殺するような場面では、常に一人の方に心を寄せる。

 

大西さんの会見の書き起こしを、一部引用します。

(謝罪を撤回した理由について)

直接誰かに何かを言って発生した感情ならともかく、ほんの一言だけ切り取られ、言ってもいないことまで拡大解釈され、それぞれの自由意志で持った(他人の)感情にまで私が謝罪したら、自由の境界線がズレてしまいます。それでも、世間はそれを当然と思ったまま終わってしまうと思ったからです。

言うも自由、感じるも自由、そこで自他の自由の切り分けをしないと、忖度だらけで耳触りの良いこと、一見正しいことしか言えなくなってしまいます

 

それからもう一つ、謝罪を撤回した理由があります。それは私が優生思想を持ち出して批判されたことです。私にそんな考えは毛頭ないし、そもそも言ってもいないことは置いておいたとしても、その批判そのものが、優生思想に基づいていると感じました。(中略)

みんな違っていても不当な不利益を被ることなく、そのままで生きられる社会を望んでいる人たちが、私に対して「お前は間違っている」「変われ」「考えを改めろ」と言って私の考えを攻撃し、社会的制裁を加えようとしてきました。私の考えがどんなものであっても、そもそもあまり理解されていないかもしれせんが、私は私のままで生きていてはいけないのでしょうか?

自分たちが正しいから、正しくない考えは粛清される。優劣が正誤に変わっただけで、優生思想と何が違うのでしょう?

 

もし私がこれを認めてしまったら、常識を外れた、異端の考えの人たちはみな粛清されます。その中にこそ時代を変える種があるかもしれないのに。

そもそも人に優劣などないように、この世に正しいも正しくないもないと思います。全ては主観です。正しさはそれぞれの心の中に持っておけばいいですが、それ持ち出して振り回せば、他の正しさとの戦いになります。そんなことをしていては一ミリも前に進まない。

私は自分の正しさを主張して戦うつもりはありません。それは一人ひとりが自分で決めればいい。でも、自分の考えにしたがって自分であり続けることはやめません。それをやめてしまったら、私は、自分は生きていることにならないと思いますから。

 

また、多くの人がこのように、たった一言で人を判断し、単純な正しさに乗っかって人を叩いているようでは、次第にモノが言えない社会になります。

思考は言葉で作られますから、言葉が制限されるようになれば、思考も制限されます。使ってはいけない言葉や言ってはいけないことは、触れてはいけないことになり、考えてはいけないことになる。

そして思考停止すれば、向き合うべき真実と向き合えなくなります。だから私は今回は敢えて批判覚悟で突っ張ることにしました。

(大西つねき会見全文https://www.tsune0024.jp/blog/7-17より引用)