続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

じぶんごと

お産話が続きますが。

 

今回の妊娠出産がこれまでになく感慨深いのは、先に書いた自分自身の心境が多少なりとも成熟したことに加え、今回のことが「一般的な」ライフステージ的枠組みからすごく外れていて、それゆえ純粋にパーソナルな体験だからなのかなと思っている。

 

これまでの結婚から2人の子育てに至るまでのもろもろは、色々な偶然やタイミングも含めて、もちろん自分で選んで進んで来た道ではあるのだけれど、同時にどこか「社会」や「世間」が要請する役割に応えるお役目という意識も混じっていたよなあ、とここにきて改めて気付かされるのである。

 

一応我々は「多様な価値観の社会」なるものに生きていて、一見耳ざわりの良いメッセージにも囲まれているし、選択肢は昔よりは増えているし、自分も自分の自由意志で生きているように思い込んでいるんだけど、実は「普通は」「そういうものだ」という社会からの無言の圧は依然として相当強いものがあると思う。

 

だからこそ、そこそこの年齢で結婚をし、そこそこの年齢で子供を生み育てるという一連の流れに進んで乗り、マジョリティーに溶け込むことで、私は上の世代や社会からのプレッシャーを回避して、楽にやってきたのだなあと思う。

 

「そういうもんだ」と自分を納得させたからこそ進めた、という側面もあると思うから、それを一概に悪いことだけだとは思わない。ただ、「世間や社会にある意味進んで巻かれていく」という楽な道を選んだことは、それなりのツケを私にもたらすことになったと思う。

私の場合は、義務感と被害者意識というフィルターを通して出産、育児という行為を捉えることになってしまった要因になったと思う。

 

 

一人目の出産の時はあんまり痛くて「いや、もうやめます」と口走り、やめられるわけないでしょ!しっかりしなさい!と助産師さんに怒られた。

産後は急に胸がぱんぱんに大きくなって、びっくりするくらい肉感的になった。

心も体もよれよれの状態で持て余すほどの大きな胸にものすごく戸惑っていたところに、天真爛漫なお姑さんに「なんだか肝っ玉母さんみたいねー!」と無邪気に言われて、悲しくて惨めで涙が吹き出した。

 

子育ては自分の時間も休息もなく眠れずほんとうに大変で、私の全てをよこせと要求するほどに自分を求める赤ん坊は、本能が無条件に愛おしいと思わせる反面、どこまでも妥協を許さない唯我独尊のモンスターみたいだとおののいてもいた。

 

家事や子育ての重い負担と母親としての責任、キャリアややりたいことを軒並み諦めねばならないこと、夫に扶養されること、社会的に弱く軽んじられる立場に置かれること。

 

出産を他人が何とかしてくれるもののようにはき違えていたことも、全てが変わってしまうことに対する理不尽という受け止めも、育児に対する被害者意識も「お役目を引き受けている」という自分の意識ゆえだったとすごく思う。

自分の未熟さが恥ずかしいけれど。

 

それでも、やっぱり社会の圧もそれなりだ。

上に男の子がいる若い母親友だちは、二人目を授かりその子が女の子だったと分かったとき、「(周囲が望む通り男も女も授かって)これで私の役目は終わったー!って思ったよ」とほっとするように言っていた。

別の母親友だちは、元々子供が苦手で一人生んでもう十分と思っていたのだけど、しょっちゅう「二人目は?」と訊かれる、知らない八百屋のおっさんにまで「きょうだいがいないとかわいそうだよー!」と言われ、「いい加減にしろ、余計なお世話だっつーの!」と毒づいていた。

 

「こういう家族のありかたが『ふつう』だよね」という圧。

自分も2人産んだ時点で、「これでもう誰にもお次ぎは?って訊かれないで済むんだな・・・」と肩の荷が降りた気持ちがしたことを覚えている。

 

しかーし!

この目に見えない圧に応え、クリアすることには実はキリがないのである。

子供のつつがない成長、進学、就職、結婚・・・。ライフイベントの要所要所で、身内や身近な誰かしらが無邪気な善意と好奇心でぐいぐいと迫ってくる。

さらに、その先には子供が産んだその子供にまで干渉が続いて行くのだとしたら。

もうどこかで世間や社会を真に受けるのはやめて、きっぱり割り切って決別しないことには、ある意味、一生応えて巻かれる人生になっちゃうよね、という話で。

それは自分の人生を見失うこととほぼ同義になってしまうくらいのことで。

 

中には、苦にならず、するすると期待に応えられる高いスペックの持ち主もいるんだろう。私の知人にも、いる。

家柄もよく、容姿や能力に恵まれ、経済的にも豊かで、社交的で人気者で、善意の良い人で、全てにおいてちゃんとしているなあ、と感心させられるような人。

しかし、そういう人たちのあまりに堂々とした、自分の正しさを疑わない感じって、私にはすごく傲慢で暴力的に感じられる時があって、もやもやさせられるのだった。

もやもやしている自分が、客観的には完全にひがんでるだけにしか見えない(笑)情けなさも相まって、どうにも言語化しづらいものがあったが、

彼らのたたずまいが「社会人として求められるものに努力して応えているのだから、自分は合格点だし正しいし、役目をきちんと果たしているのだ」という自負のあらわれなんだとしたら、なんだか腑に落ちるものがある。

 

そして自分自身を戒める気持ちも。

ある作家の女性が「あたし、妊婦って嫌いなのよね。大きなお腹でふんぞり返って歩いているでしょう。全身で正しいって言って歩いているみたいで」と以前どこかで書いていたけれど、確かにそう思う人もいて当然だろうなあと感じるのである。今の自分の迷いなさを顧みても。

 

 

今回、誰の要請もなく、従って誰のせいにもできなくて、でも本能がどうしても命を葬ることを拒んで迎えることになり、だからこそ純粋に「じぶんごと」になったな、と感じる。

自分が女であることを受け入れること、出産という究極に生々しい行為にどう向き合いたいか。

今回初めて布おむつ、おむつなし育児にも興味を持っていろいろ調べている。

臭いものや汚いもの、面倒くさいことが苦手で、できるだけ触れずに簡単に追いやってしまいたい、というこれまでの自分のありようから、当然人間についてまわるものからは逃げずにおだやかに生活に組み入れていきたいという自分の意識の変化を感じている。

 

 

逃げずに受け入れて自分なりに楽しく工夫する。

生き物としての自分の身体が喜ぶようにしてあげる。いたわってもらえて嬉しい。

そういう意識が生まれたら、これまでの怖く苦痛で損な気持ちがすごく薄くなってびっくりした。

 

義務感、それに付随する罪悪感、被害者意識は、今も私の中にばっちり巣食っているし、多分これからも気がつけばそれに苦しめられている、そういうものなのだと思う。

しかし、そのやっかいなものをできるだけ少なくし、そこからいかに自由になれるかが、自分の幸せや納得感に直結しているということはいつも忘れないでいたい。