続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

フレーミングとリフレーミング

昨日のSession-22のオープニングで、荻上チキさんがとても興味深い話をしていた。それは、こういう話。

 

出演者の死を受けて打ち切りが決まった「テラスハウス」という人気リアリティーショー。そもそもチキさんはどういう番組かを聞いて、あえて見ないという選択をしていた。

そのため番組内容の詳細については知らないのだが、今回の件を受けて日頃からメディアについて自分が何を見、何を見ないかについての基準について改めて考えた時、「自分が見たいものは「リフレーミング(reframing)をしてくれる作品」なんだなと。

 

メディア心理学の研究分野において「フレーミング効果」というものがある。メディアがフレーム(frame:枠組み)を与え、切り取る。どういうフレーミングで情報を与えるかによって、見る者・出演者の印象はいかようにも変わってしまうメディア機能のことを指す。

メディアの伝え方のニュアンス次第で、特定の感情を喚起したり誘導したりすることができてしまう。

だから、とりわけ報道の分野においてはこの点に非常に自覚的かつ注意深くある必要がある。

 

これは報道に限らず、あらゆるメディア作品において言えることで、バラエティー・コメディの分野においても同様である。

例えばお笑い番組が「ここに映っているこういう顔立ち、あるいは体型の人は『笑ってもいい人』なんです」とフレーミングすることは、差別やいじめを加速する要因になりうる。

たとえ画面の中で笑われているお笑い芸人自身はそれを「自分の個性、セールスポイントだ」とポジティブに捉えていたとしても、結果として同じ要素を持った存在全体が「笑われる者」として規定されるということが社会で再生産されることになる。

 

政治、差別、感動、あらゆる事象に対する解釈において、メディアのフレーミング効果の影響は無視出来ないほど大きい。

 

 

そんな中、チキさんが一貫して見たいのは、re-framingつまり枠組みを壊し、再構築するものだ。

自分自身が無自覚に縛られていた枠組みの存在に気付かせてくれ、それによって救われたり、世界の捉え方を変えてみようと思わせてくれるもの。

しかもそれが攻撃的というよりは包摂的で多様性へと開いていくというアプローチのもの。

 

 

ああ、私自身も全く同じだなあと思って。自分が常々考えていたことに、くっきりとした輪郭を与えてもらった気持ち。

私は本でも映画でも誰かの話でも、「気付かなかったところに光を当ててくれるもの」「思い込みを外してくれるもの」「より大きなスケールを示してくれるもの」「呪いを解くもの」といった言葉を用いて、それらが見せてくれる感動をいつも何とか齟齬なくクリアーに言語化したいと思い続けてきたように思う。

それは、自分にとっての書く事の意味と興味そのもののようににさえ思える。

 

ひと言で言い切ってしまえば、それは「リフレーミングの快楽」なんだなー。自分の浅はかさや無知を自省する恥ずかしい思いも含めての快楽だ。

そこに至ると自分に関するすごくいろんなことが、「目からウロコ」みたいに一気に腑に落ちる。

 

どうして今の与党の政治や、いわゆる既得権益のありように黙っていられないのか。

それは自分と考え方が違うからではなくって、権力者の都合や保身に合わせて日替わりで都合よくフレームが変えられ、どんなに無理筋なことでも、あからさまな嘘や言い訳も平気で強引にルールを決め、それらをあたかも正当なもののように枠組み化して押し付けてくることに対して、強いフラストレーションを感じるからなんだ。

 

どうして差別が嫌いなのか。

そもそも差別というものが、人をあるグループやカテゴリーの者であると勝手に規定して、個別性を無視し、一方的に自分を強者とみなした側の者が絶対的な優劣を固定しようとするものであるからなんだ。

 

どうしてある種の人、例えば今年のおっちんの担任のような人とあまり関わりたくないのか。

正しい正しくないとか好き嫌いとかではなく、ある種の人は自分の役割や自分の属する枠組みからけして出て来ようとせず、そこに安住することを好み、相手に対して興味もなく、心を閉ざしたまま人と接する。

そういう人とは「本来的なこと」や「そもそも」について話すとっかかりさえつかめない。だから、接していて虚しいし、悲しいのだ。その人が嫌いとかいう以前に、そういう表面的なやりとりのために時間を使うのが嫌なのだ。

 

逆にどうして自分がある種の音楽や映画を愛好するのか、どうして「その人」が好きなのか。旅が好きなのか。

それらは、ああ、全て、見えなかったところに光を当て、壊し、拡げ、受け入れるものだからなんだなあ〜。うーん、じーーん。

 

だからこれからも「お前は◯◯だから、こう振る舞え、こう思え」と押し付けてくるものや、「感謝しろ」とか「これが正しいことだ」とか、巧妙に枠組みを作ってそこに押し込めるように誘導してくるものには、こつこつ抗議し、いちいち水を差して行くと思う。

 

世界とは、善と悪がせめぎあっているんじゃなく、フレーミングとリフレーミングのせめぎ合いなんじゃなかろうか。

そういう風にも見えてくるなあ、うん。