続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「宮本から君へ」

f:id:beautifulcrown7:20200330150748p:plain

2019年/真利子哲也監督/129分

 

とにかくエネルギーがすごくて、呆気に取られてあっという間の2時間だった。 マッチョ全般が苦手な私にとっては、嫌いな要素がぎっしりてんこ盛りだったけれど、揺さぶられた。

 

暑苦しくて、無計画で、ひとりよがりで、暴力にうったえて解決する世界。

あの土建屋のおっさん連中の嫌らしく鼻持ちならない体育会ヤンキー系連帯感。

センスのないスタイルも、偉そうに人を威圧するおやじも、すぐに激高して叫んだり泣いたり、飲んで酔っぱらって大騒ぎしてノリノリになってだらしなくなる考えなしで下品なさまも、

ああ嫌だ嫌だ、吐き気がするほどだ。

この映画は、宮本と靖子のセックスシーンも含め、何一つきれいに、オブラートに包んで描こうとはしていない。どこまでも生々しく人間的な、しまりのない世界。

 

けれどその暴力的で愚かでださくて下品な世界は、逃げ切ることのできないリアルな現実でもある。

取り返しがつかないひどいことだって人の人生には起こりうる。

生きるってことは、痛ましくてどこまでもみっともないことだ。

どんなにやめてしまいたくとも諦めるわけにはいかない。リセットはできない。

汚れながら傷だらけになりながら、歯を食いしばって生き続けていかなくてはいけない。

 

ここには私の見たくないものがぎゅうぎゅうと詰まっていて、文字通り顔を背けながら見続けるうちに、いつの間にかにぎりこぶしに爪が食い込み、食い入るように見入っていた。

どれだけ「私の嫌いな」ものから遠く離れて生きているように思ってみても、それらを低俗とみなしてどれだけ遠ざけてみても、自分も小さくて弱い女に生まれついて、そういう問答無用の暴力性には何度も踏みつけられて痛めつけられてきたし、理不尽な暴力性はふとした瞬間に出し抜けに降り掛かってくる。こちらに何の瑕疵がなくとも。そして、何の挽回もできないことがほとんどだ。

 

そうした経験は、誰もが多かれ少なかれ、普段忘れたようにしていても心の奥底では悔しく悲しいままにじっと、癒えることのない傷として抱えているものだと思う。

 

宮本も、大方のことは、堪えて笑ってやり過ごして来た。「あの時」までは。

 

宮本は、もう自分の身体がどうなってもいいから、死んでもいいから、この世界の暴力性に尻尾を巻いて逃げるのではなく、男の意地で、徒手空拳で立ち向かうのだと「決めた」。

その後先考えぬ無謀さは自分の苦しみから逃れたいがためのもがきで、心のあまりの痛みゆえに冷静さを失った興奮につきうごかされていて、「自分、自分、自分!あんたは自分ばっかり!」と靖子が言った通り、のたうちまわるエゴである。

 

けれど宮本の実に暑苦しく格好悪い、でも格好悪いことなんてもはやどうでもいい死ぬほどの狂気のような切実さに、なぜだか無性に泣かされる。何の涙なのか分からぬまま。

 

男の子を生きる滑稽なまでのつらさしんどさが宮本には凝縮されていた。

「一人前の男たるもの」という重たい十字架を背負い、男らしさというものが完膚なきまでにはき違えられているがゆえの悲劇と喜劇。

 

そして蒼井優はいつもながらとても上手かったけれど、彼女演じた靖子役は「彼女がその名を知らない鳥たち」で演じたヒロイン同様、男性目線で描いた都合の良い〈聖母マリア〉的側面が強かったのは少し残念。

 

靖子は一見主張が強いようだが、ひとりの人としての主体性が希薄で、しかし母性だけは揺るぎなく、男のために存在している「母のような女」という感じ。

それゆえ、蒼井さんが魅力的に演じていても、女性から見るとどこか人間味薄い微妙なキャラクターになっている。

ま、男性女性、お互いさまなのだと思います。

そんな中、井浦新演じたチンピラの元カレは味わい深いキャラクターだったなあ。個人的には助演男優賞

  

最後、靖子が救急車に運び込まれる時「妻と子のために、俺の命使って下さい!何でも、心臓でも内蔵でも」と、宮本はすがるように言う。

もうすっかり終わっているのにばかだねえ、と担架に乗せられた靖子はかすかに笑う。

 

男でも女でも、人が一番潔く格好良い瞬間は「自分なんてどうでもいい。痛い事も、傷つくこともどうだって構わない。大事な人を守れるのなら」という肚の決まった時なんだろう。

 

とにかくまーひりひりした、はー疲れたー。