続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

岩田さんの件に対して思うこと ④「場」と「個」

ちょいと疲れてきました。早く書いて手放そう。

 

言葉足らずながら、東大話法と正常性バイアスという視点から、分析的思考を否定したり抑圧したり自己正当化したりすることのロジックについて考えてみた。

 

もうひとつ、この機に考えをまとめておきたいことは「なぜ岩田さんが排除され、ある層の人々から攻撃され違和感を持たれるのか」という問いについての考察。

 

岩田さんの動画の冒頭は、こういう言葉からはじまる。

岩田健太郎です。神戸大学病院感染症内科教授をしていますけれども、今からお話しする内容は神戸大学など所属する機関とは一切関係なく私個人の見解です。
予め申し上げておきます。

 

個人として自分の考えを表明するとまずことわっている。

現状取り仕切っている組織のやり方や発表されている見解を否定したり、その落ち度を指摘せざるを得ない内容だから、相応のハレーションや圧力が起きることが想定される。

そのため、所属機関に影響が及ばないようにという配慮であると思う。

同時に、相当なリスクを覚悟した上での発言だったのだろうなと思う。

 

そして岩田・高山両氏共に、「感染学会の人として船に入るか、DMATとして入るか、いやDMATの下働きとして入るか」という奇妙で込み入ったやりとりについて長々と言及している。

部外者としてはそんなんどうでもええやん!?と思う訳の分からないやりとり。

しかしこれはどういう論理がクルーズ船の現場を支配しているのかを象徴している。

 

つまり受け入れ側が「お前はどこに所属している者で、どの立場からものを言うのか」を最優先しているのだということ。

喫緊の現状分析よりも課題解決よりも。

岩田先生個人の知見や専門性は「船に入った時の立場」より下位に置かれる。それが日本なんだな。

 

岩田先生の告発後も、おかしな意思決定は続いている。

検査はしばしば間違うので、一律2週間隔離するのが確実と岩田先生が進言し、他国はすでに同様の措置をしていても、その意見や事実は無視し、数日前に陰性の判断が出たらそのまま下船・解散を決行。

その後やはりその中から感染者が出ているが、誰も責任は問われない。

ゾーニングされていない場所を行き来していた濃厚接触の可能性もある官僚たちにあえて検査を受けさせず、職場に戻す方針を発表する。これは、下船者から陽性が出たことを受け、さすがに撤回されたけれど。

 

こういう非論理的なことがまかり通ってしまうのは、人の命が懸かっている緊急事態にも関わらず、正しさや論理性よりも「その場を支配する人の意見」が最優先されているからに他ならない。

 

あえて強い言葉で書くが、今日本で重要な「場」を支配する人たちが、一人ひとりのの命や正義よりも見栄やプライドを気にしており、厳しい知見を聞き入れ正しく対処する胆力を持たず、独断的な素人考えの判断を押し通すことに危機感も恥ずかしさも感じない人たちだからこそ、こうなっている。

 

それを馬鹿げた判断だと誰もが思いながら、どこか「そういうものだ」と受け流してしまっている。正しさよりも場を支配する人の意見が優先されることに皆が慣れている。

だからこんな理不尽な判断にも関わらず、なぜか責任問題にも問われない。

 

今、政治与党の場が志の低いイエスマンしかいられない場になっていることは周知の通り。宰相からして耳の痛いことを言う人の言葉には耳を塞ぎ、自分を不快にさせた人はあからさまに排除して自分を気持ちよく持ち上げてくれる人だけを優遇する姿勢を隠しもしない幼児的な人であり、そのスタンダードが各分野に及んでいる。

 

事実、専門家の岩田先生を問答無用に「自分の与り知らない話だ」というくだらないプライドだけで排除したのは、自民党議員だった。

どれだけいろんな場面でしょうもない「えらい立場の人」たちがふんぞり返って、実務者の正しいオペレーションの妨げをしていることだろうと思うと暗澹とする。

 

高山さんの文章の中に、このような記述がある。

岩田先生の感染症医としてのアドバイスは、おおむね妥当だったろうと思います。ただ、正しいだけでは組織は動きません。とくに、危機管理の最中にあっては、信頼されることが何より大切です。

専門家としての指摘は正しかったが、危機管理の最中においてはそれよりも「信頼」が大事なのだと。信頼、という漠然とした否定しにくい言葉を持ち出しているところがいかにも狡猾だ。

しかしそもそも、危機管理の最中にあって一番大切なことは、そんな漠然とした精神論ではなく、「正しく現状把握し、速やかに最適な措置をとる」に決まっているじゃろ、と思うのだ。

 

現場が混乱して皆が迷惑して仕事ができなくなったから下船せざると得なかった、と自業自得のように書いていたが、現場を指揮する立場の人がひとこと「専門家の指示に従って下さい」とクルーに号令をかければ良かっただけではないの?と思ってしまう。

 

これは、言い換えると、「個」を「場」が封殺したということ。

 

その場をつつがなく運営させる人だけが、そこにいることを許される。その場のトップが自分の見栄やプライドを優先する人物だったなら、彼を満足させ、逆らわず、都合の悪いことを言わない人、あるいは意見を言わない人だけが、結果的にその場を運営することになる。彼を不快にさせた人は排除されてしまうから。

そのひとつの結果があのクルーズ船の顛末だということになるのだろう。

 

日本では、あらゆる場所で「場」が「個」を凌駕する。

何よりも和をもって尊しとなす。

決まりきった「型」や予定調和がスムースに進行する場を過大評価する。

「個」は常に「場」の下で控えめに振る舞うことを求められる。

皆が「場」に疑義を呈する事なく、大人しく従うのが「成熟」であり、それに従わないのは「未熟」であるとみなす。

 

でも、

ほんとうにそれは正しい思想なんだろうか?

 

 

私は、「場」を死守しようとする思想が極まって、無思考に繋がっていると思う。