続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

批評の弊害

昨日の夜地方からだんなさんが帰って来て、色々とみやげ話があったので、今朝は気がついたら3時間も話し込んでしまった。

いつもの朝はせいぜい1時間足らずなんだけど、もう昼になっちゃうじゃないか!

ま、いっかー。夏休みだし。

 

 

 

しばらく前にも話に聞いていたが、だんなさんの知人の映画監督が長編デビューした作品が最近公開になり、とても面白そうだ。

今のところ公開館はすごく少ないけど、予告編を見てもこの程度では終わらないだろうな、という大柄なエンタメ感がある。

横浜の映画館でかかったら、楽しみに見に行こうと思っている。

 

 

だんなさんはだんなさんで、週末のイベントディレクションの仕事は楽しくいい感じだった様子。イベントは大盛り上がりだったようだし、いろんな人との出会いにも刺激を受けたようで、良かった良かった!と思う。

元々出不精で、家で編集している時は引きこもった暮らしをしている人なので、コントラストがすごいのだ。

 

 

良いひと仕事の後のあれやこれやの話を聞くのはいつも楽しい。

しかし、生々しい業界の裏話もそこには含まれていて考えさせられるものがある。

また、年齢を重ねるに従って居場所を狭められていく業界である厳しい現実については、もう目を逸らしてはいられないところに来ているなと思う。

 

鵜飼にはなりたくない。ならばやっぱり自分で作るしかないんだよね、といういつものループ。

 

 

その一番の障壁はきっと「自分」なんだよね、

と、だんなさんがぽつんと言う。

周囲に何人か映画監督として日の当たる場所に出て行った知人がいて、最近公開になった作品を作った彼も含め、そうして形にした人には共通点があると言う。

 

彼らは他人の仕事にはあんまり興味がなく、気にもしてない。

あんまり普段映画を見てすらいない人も複数いる。

彼の師匠も他の人の作った映画をほぼ見ないし、そんな時間はもったいないと言っていたな。

 

逆に、学生時代から周囲ですごく一目置かれていて、短編もいくつも撮っていた彼の親しい友人は、業界で活躍しているものの自分の監督作品に関してはなかなか機会を得られずに苦労していたりする。

その人はマニアックな映画ファンでもあり、日頃からあらゆる映画を見て隅々まで批評している。

 

他人の仕事をジャッジすれば、自分に対しても厳しくジャッジすることは避けられない。それは自分の作品を作る上では実は予想以上に大きな弊害になってしまうんだろうと、思う。

 

自分も映画が好きだから、どうしても自分に厳しくなってしまうきらいがある。

と、だんなさんが言う。

 

特殊メイクの辻一弘さんは、「とにかくクオリティーは問わずに最後まで作りきるのを積み重ねるのみ」と言っていたけれど、何事もそういうことなんだと思う。

自分自身も耳が痛い。

 

だから、作りたい人は批評をするのを(書くことも、考えることも)極力やめたほうが多分いいのじゃないかな、

と、自分の振る舞いを考えながら私はつぶやく。

 

でも、スコセッシもタランティーノもめっちゃ他の映画のことあれこれ語ってるけどね。

ようはどちらに対してどれだけ欲が強いか、ということだと思う。

何にしてもこれはこうだと決めつけたくはないんだ、

と、彼は言う。

 

それに、自分は基本良かったもののことにしか言及しない(そこは私とは違う・・・汗)。

この作品のどこにこんなにも揺さぶられるんだろう、何でこんなに好きと思うんだろうと考えることは、大切なことなんじゃないかな。

 

 

もちろん誰もが批評するほどに作れなくなるということでないとは思う。

ただ、そもそもスコセッシやタランティーノの作品って、彼らの脳内にある膨大なアーカイブの再現を追求したものだ、という見方もできる。

その強烈な偏愛に基づく映画へのオマージュそのものが映画の形になってるんだよな。

 

 

いずれにしても、自分が自分の厳しい批評家になってしまって、身動きが取れなくなるって残念すぎる。

自分で自分を檻に閉じ込めているみたいで。

 

 

彼には彼のやり方があると思うが、私に関して言えば、このことは当てはまるように感じる。

私は映画に関わる人ではないけれど、趣味の映画についてあれこれ語ることはやっぱり自分の表現の妨げにつながるように感じるし、近いゆえにだんなさんに対しても弊害を及ぼすように思える。

 

とりあえず、同居人には悪影響を与えぬよう、彼に映画についていいとか悪いとか言うのは一旦やめてみよう、と思う。

良いものほど、うずうずと言いたくなっちゃうんだけどね。