続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「愛がなんだ」

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2019年/今泉力哉監督/123分/公開2019年4月19日〜

 

現実の人々の言動に、どれだけ誰にも納得出来るほどの確かな根拠があるだろう、ってことなのだよなあ。

とりわけ、若い人々においては。

 

自分の考えを一度ぐっと踏まえ、それに基づいて納得性のある言動をしたり、自分の気持ちをできるだけ正確にアウトプットしたりする。  

元々そういうことが上手な人もいるだろうけれど、そうでない人にとっては、それは大人になるに従って後天的に身につける技術なのだと思う。

 

自分も若い頃、上手なアウトプットって全くできなかった。

子どもの頃は思っていることを言ったり質問をしたりすると、頭ごなしに怒られたりしがちな家庭や学校の環境だった。

 

だから思えば私の場合は、今のだんなさんに出合って、じっくり話を聞いてもらったり、分からないことを訊くと、それにきちんと答えてくれるという経験を重ねたことが随分大きなことだったと思う。

 

遅まきながらじりじりとアウトプットの技術を学び鍛え、日々恥をかいたり後悔したりしながら、失敗と反省を繰り返す。

そして、できうる限り誰かをそして自分自身を、むやみに傷つけぬために思慮深くありたいと思って自分なりの努力を続ける。

 

慎重であること、決めつけぬこと、思慮深くあること。そのようなことは大人として必要な成熟であるし、それらを心に留めつつ年を重ねることは当然良いことだと思ってきた。

 

しかし!何かを得ることは何かを失うこととイコールなんだよなあ。

この映画を見ながらしんみりとそう思った。

 

この映画を見ていると、気持ちのままに生きていた10代〜20代の半ばくらいまでの、すっごいバカなんだけどすっごいシンプルで何の滞りもなかった、あの頃の軽やかな感覚を思い出す。ただただ自分に正直だった。

それはそれは愚かで、当然時には利用されたり騙されたりする可能性もはらんでいて、基本学ばないから懲りないし、まあ取りつく島がないバカっぷりなんである。

 

でも、だからこそうらやましいほどに無心なのだ。

無心さとは失ったらきっと二度と取り戻せないかけがえのないものだ。

賢明さと引き換えに、避けがたく失われるものだ。

 

もちろん、だからってあの頃のままがいいだなんて思わない。

第一はた迷惑だし。

今だってはた迷惑だろうけれど、少しは小ましになっていると思えなくては、年を取るかいがない。

 

大人になるということは、さびしいことなのだ。

時々、懐かしいのう〜さびしいのう〜とノスタルジックになるのは、それはもう「込み」なんだと思う。

 

だからこそ、若さは若さとして、悔いなく楽しみ尽くすべきなんだろう。

若い頃の格好悪くも必死のパッチの思い出の持つ、濃密な生の実感にかなうインパクトって他にはなかなかなく、それらはその後の人生を細く長く温める燃料になってくれる。

 

 

私の場合、恋愛というものは今ではおおむね相対化された。

いったい恋愛は交通事故のようなものだし(©中島らも)、

生殖本能がなせる「サカリの時期」なのだし、

誰かを愛する気持ちは尊いかもしれぬが、恋愛は自己愛を多分に含むものであるし、

恋愛は、今では人生の多様な価値や欲望の中の、限定されたひとつのパートであるという感に。

 

ずっと恋にお盛んなパワフル人生の人もいるとは思うが、人間さかりの時期を過ぎると、過ぎ去ったものをためつすがめつ眺めるみたいにして、大体そのような相対化の心境に至るものではないかと思う。

 

個人的には、恋愛という感情をある程度クールに相対化することは、生きる知恵のひとつでもあると思っている。

何を大事に思うかは人それぞれで悔いなく生きるのが一番だけれど、恋愛の衝動は制御しがたいものだけに、客観性のブレーキを持っているに越したことはないかも・・・

いや、あったと思っていても一瞬で無駄になることも、いくつになってもあるのかもしれないな。分からない。自分の実感なんてたかだか40数年のものに過ぎない。

 

 

 

テルコは、お手軽な女の子としていいように利用されている。ただただマモちゃんと一緒にいたくて、プライドもなにもなく必死。距離を詰めすぎたり、かいがいしく世話を焼きすぎたり、関係性を形にして安心しようとしたりして、疎まれている。

テルコの人生の地図はない。過去も未来もない、今そのようにしたいと思うことをシンプルにする。

なんとやみくもで、考えなしで、無防備なことだろう。

 

マモちゃんは、はなからテルコをちゃんとしようだなんて、思いつきもしない。なんの自覚もさしたる思いやりもなく、自分の気持ちのおもむくままにうざいと思えば突き放し、寂しいと思えば優しくする。

マモちゃんもまた、過去も未来もない、今の感覚に従っている。

 

抽き出しが違う。「ちゃんとする」という抽き出しに入っていない相手は、大抵ずうっとそのまんま。「こいつとは、ないな」と一度断じたらそこまで、っていう世界。

そんなん無責任じゃないか、不誠実じゃないかっていう正論なんてなんの意味も成さない世界がそもそも恋愛ワールドである。だってどんだけ表面こねくり回そうとも、一皮剥けば、ほぼほぼ本能だもの。

 

映画はそのことを、すごくそのままに描いていた。

純粋さやドラマチックさを盛ったりすることもなく、みじめなまでに振り回され、何に振り回されているかもあんまり自覚もなく、でも切実に若さを生きている人々の脊髄反射的生きざまは、滑稽で物悲しく、同時に愛おしく思えた。

 

永遠の本能のループだ。うんざりするような、輝かしいような。

 しかし、打算も何もすっとばした、どうしようもない愚かさの中にだけ宿る本物の気迫というものもある。 

いずれにしても、そのループの中にすっぽりはまっているある種の視野狭窄の中にだけ、100%の恋愛の幸せがあるのだろう。

 

かつてはそのループの中でもがいたりわめいたり、相手にとって残酷なことを当たり前みたいに享受していた記憶を含め、私は今ではそのループを外からしんみり見ているのだなあ。

 

その平らかさは、また別の幸せではある。

 

 

この作品で描かれる男女のありようは、よくあるいわゆる青春映画のきらきらしたステレオタイプな青春からはかけ離れている。

青春と呼ぶにはあまりにみじめでしまらないのかもしれないけれど、私はここに描かれているのは紛れもない本物の青春だと思うよ。