続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

コミュニケイション・ブレイクダウン

昨日私学の合格発表があり、だんなさんは今、入学金を納めに高校へ行ってくれている。

振込とかではなく、今日・明日のあいだに必ず持参しなければならないのだ。

軽く1000人とか受験していたとのことなので、うん千万円というお金がこの2日間に学校内に持ち込まれることになる!

なんというボロい商売であろうか。さらに、よその高校や、大学はもっと「手付金」が高いのだもの。加計学園がなんとしてでも、やぶれかぶれでも学校をやりたがった気持ちはよく分かる。

受験料はともかく、入学手付金ってつくづくナゾの仕組みだ。足元を見ているのだなあ。

 

さて、午前中に原稿をひとつ納め、この後超苦手な請求書起こし。もうこういうの苦手すぎて、限界までいつも後回しにする性格だ。

今月は仕事を断りまくったので、後半はスロー。とはいえ、優太が今週受験だし、別に私が何をするでもないんだけれど、家にいていろいろ整える一週間にしようと思う。

 

 

こないだ、だんなさんがレッド・ツェッペリンの「Communication Breakdown」をスマホで聴いて、自嘲気味に頭をぶんぶんして合わせて歌ってふざけていた。

 

そう、ただ今コミュニケイションがブレイクダウン中なのである。

夫婦揃って、コミュニケーションできない人との対話をあきらめた先週であった。

 

だんなさんはとある仕事のオファーを断る。依頼者が高次脳機能障害系であり、周辺の人とトラブル続きで活動が細るも、なんとかできることは協力してあげよう、と思ってきたが、やりとりしてもしても言葉が通じず、突拍子もない曲解をされ、熱意だけはブルドーザー的という状況で、ついに「ごめんなさい、これ以上対応する自信がありません」とギブアップしていた。

 

私は私で、自治会役員をギブアップすることにした。

がんばったが、こちらも対話が成立しなかった。一人ひとりにどうこういう思いはないが、高齢男性たちの日本語じたいが通じないことにもうめげた〜。

 

「人の言葉を聞いて、意味を受け取って、自分なりに考えて、それに対して何かしら返す」という、一連の「ふつうの」コミュニケーションのプロセスって、日常当たり前のようにやっているんだけど、お年寄りにとっては相当難しいものなのだなあ、とつくづく実感したここ数ヶ月であった。

 

お年寄りと日々関わっている医療・介護関係者にしたら日々がその連続で、いちいち投げ出してなんていられないことだと思う。

今後超高齢化社会をサバイブしていかねばならぬのに、そして自分も年々高齢化していくのに、対話を諦めてしまったな・・・という挫折感。

自分なぞ、その程度のものだ改めて小物ぶりを痛感している。

 

言い訳になるが、仕事であればもちろん違った。

自分の限られた時間、限られたエネルギーを何に注ぐかということは大事な問題だ。

何となく流されて、成り行きでしょいこんだものこなしていけるほどの体力と処理能力は、自分にはもうない。

他をおろそかにしてもがんばるだけの値打ちもさすがに見出せない。

さらにとにかく仕事量が多すぎてその分自分の仕事をできなくなるので、経済的にも困る。

となると、ごめんねする以外ないと判断した。

 

とはいえ、とどめのように降って来たこの役割を通じて、これまで自分が歴任してきたさまざまな「母親たちを取り巻く強制ボランティア制度」全般について、自分のなかで改めてようく考える機会になった。今後の自分なりの落としどころもある程度見つかったな、と思う。

 

脳コワ的コミュニケーションと共にもうひとつ厳しかった側面は、たとえば従来の男尊女卑的な価値観が内面化している高齢男性とどう接していくかという部分。

これも、雇用関係ならもうちょっと違う受け止めがあったんだろうけど。

強制ボランティアという枠組みの中で、若輩者で女性だからということで押し付けられる部分に対して「えっと、我慢して従わなきゃいけない意味が不明なのですが・・・」となってしまった。

 

気がつけば、自分のだんなさんや息子を含め、周囲にマッチョで強権的な男性がほぼいない。仕事で接する若い男性たちもどちらかというと自分よりも女性的で弱々しいくらいの人も多い。

自分の環境はやっぱり結構偏っているんだろうか?

やはり業界によってはマッチョで荒々しい人もそりゃいるんだろうとは思うのだけど、トランプとか麻生大臣みたいな人はもちろんメディアで見て知ってもいるけれど、人があんな感じでいいとは大多数の人はさすがに思ってなかろうと何となく思っているし(それも勝手な思い込みかな?)。

不可避的な状況がある人以外は、彼らを立てて付き合って行くことを受け入れる必然性について、あんまり上手く想像ができない。

 

そんな訳で、自分は所詮狭い世界で生きていて、それなりにいろんな人とも付き合ってきたつもりでいて、でも自分も含めてみんなアウトサイダー側の変わり者が寄り集まっているようなところがあって、というあたりも改めて自覚する。

 

でももちろん人よりけりで、この人素敵だな、かわいい人だな、と思うおじさまも複数いた。

今回の強制ボランティアはごめんなさいしたけれど、今後もめげずに少しずつでもコミュニケーションの努力は続けて行こうと思う。ちょっと今しばらくは休みたいけれど(笑)

 

色々勉強になった。

結論に固着すると、会話って目的を失いディベート化してくるということ。

人は、どれだけダイレクトに、シンプルにそのことを伝えても、見たくない事や聴きたくない事はきれいにスルーし、さらにその事に無自覚でいられるんだということ。

対話とマウンティングの違い。

自分の言いたいことだけを言い合うコミュニケーションは、徒労感溢れるものであるということ。

聞く、訊くということが、対話における全てのブレイクスルーにつながるんだということ。

 対話において決定的に影響するのは、その物事の正しさ如何ではなく、どのように人々の心が動くかということ。

否定のコミュニケーションは人の心から活力を奪うものであること。

対して肯定は、自分も相手にもエネルギーをチャージしてくれるものであること。

意見が合わなくても、肯定するというコミュニケーションはできる。だからいつもそれを対話の基本にするべきなんだ。ということ。

 

反省と、反面教師両方で、勉強になった。感謝。

 

それにつけても、「独特老人」という面白い対談集で、鶴見俊輔の章を読んでいると、話す中で相手から受取り、どんどん愉しげに変わっていく80才を過ぎた鶴見さんの少年のような柔軟さを驚くべきものだな、と改めて感じ入る。

会話を読んでいると、気持ちの良い風がさーっと吹き抜けているたい。

 

こちとらいつも大真面目で、閉め切った部屋みたいに重苦しかったな。

  

自分としては、結構冷静にあの手この手で対話を模索する実験的なスタンスだったので、いろいろ言われた割にわだかまりもなく、さっぱりしている。

嫌な人がいるのではなく嫌な人になってしまう状況があるだけだ、と思っているので、このままここにいたら私は嫌な奴になっちゃうし(他の人たちは全然そうではない。あくまで私は)、(自分にとっては)不幸の手紙みたいなバトンを渡すしかなくなると思ったので、去る事にしたということだけなので。

 

自分としては、相手がどうあれ、礼儀正しく笑顔で言うべきことは言ってきた、という思いがあるので、後ろ暗くなくいられる。そこは自分的には大事なポイントで、良かった、と思っているところである。

 

さて、ヨガへ行ってさっぱりしてこようっと。