続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

負の連鎖

 

もう順調にテレビなし生活に突入している我が家。(さっそくNHKを解約して、これは心からせいせいしている)

テレビ処分前に見た、安楽死の必要を訴えているがん患者で写真家の幡野広志さんを取り上げた「クローズアップ現代」もまだ記憶に新しいなか、今朝だんなさんがこのツイートを見せてきた。

 

一年間でいろいろな方と議論してきて感じたことですが、安楽死に感情的に一番強く反対される方は近しい人の苦しむ姿をみたかたです。緩和ケアにも否定的なので悪循環だと感じます。

もちろんごく一部の方ですが、自分が苦しんだことを、他の人にも同じように苦しんでほしいという心理の方はいます。

“卑怯だ。”とか“逃げだ。”とか“狡い。”という言葉をかけられることがありますが、面識の全くないぼくや妻や息子が苦しまない(ように見えること)ことが許せないのでしょう。

お前も苦しみから逃がさない。という感情を強く感じますし、ぼくが安楽死を選ぶことで余計に苦しめているのだとも感じます。

こういった方とやりとりするたびに、緩和ケアやグリーフケアの必要性を感じます。

安楽死を選んだり、苦しまないことを望んだことを妬まれるって、ごく一部とはいえヤバいでしょ。

 

ーー幡野広志さんの2019年1月10日のツイートより

 

これって、あらゆる分野で言えることだよね、と話し合う。

人間の怖い闇の部分だが、状況によっては誰もがこういう思想になりうる可能性をはらんでいるというところが、何より怖い。

 

LGBTの問題などでも繰り返し言われることだけど、

彼らが彼らの責任に基づいて、自分の人生におけるある選択をすること、その人のしたいようにさせてあげることを、どうして妨害しようとする人がいるのだろう。

 

苦しんでいる人が、その原因を取り除き、より良い人生にしたいと願っているだけ。

あなたに何の関係もなく、何の迷惑もこうむらないことに対して、なぜヒステリックに否定し、攻撃する必要性を感じるのか?

その心理の本質に攻撃者が向き合わない限り、同じことはジャンルを変えてどこまでも続くだろう。

 

 

自分が親や親しい人にそのようにされたこと。

自分が誰かに良かれと思ってそうしたこと。

過去に自分がこうむったこと。

 

こうしたことに対して、自分の中で折り合いを付け、正当化する作業が必要になることは、人生の色々なシーンである。

「これで良かったんだ」「他に方法はなかったんだ」と。

 

それに対して、「そもそもそんな選択をする必要はないことに気付こう」「人それぞれだけど、自分はそれは選ばない。無駄だし、嫌だから」そう主張する人が出て来た時に、彼らは自分の体験を無意味化されたように感じてみじめになったり、自分の正しさを証明する必要に迫られ、心穏やかではいられなくなる。

攻撃性のコアにあるのは、こうした心の動きだと思う。

 

だからこそ、幡野さんは「ずるい」「逃げ」「卑怯」と言われる。会った事もない人に。

これらの言葉をそのまま裏返せば、「得をしている」「うらやましい」ということになる。

彼が誰にも迷惑をかけず、彼や家族の苦しみを軽減してより良く生きようとすることを、「不当」に「ずる」をしている、と捉える。

彼らは本当にはこれで良かったと思えていないのだ。むしろ、どうしてこんな目に遭わねばならなかったのかと思っている。

攻撃者とは、いまだに傷つき続けている、癒されない不幸な被害者なのだと思う。

 

そして、人が自分の人生を良くし、笑って死ねるかどうかの分かれ目は、まさにここにあるのだと思う。

自分がこうむった不幸や残念なことの事実に向き合って、折り合いをつけ、そこから何かを学び、負の連鎖をいかに断ち切っていけるかどうか。

 

誰もが何かをこうむっている。何もこうむらずに生きて来た人などいないのだ。

そこから知り得たものを、その業を断ち切り、「より善きもの、愛あるもの」として次に繋げて行くか、

義務と責任と称して「苦痛で理不尽だが正義」のものとして次に押し付けていくか。

その態度が、大げさでなくその人の人生の値打ちを決めるのだと思う。

 

「自分の正しさを証明すること」に固執するあまり、全てが台無しになっても構わないのも人間だ。「ほら、私の言った通りだったでしょう」と言って、勝った!と思って溜飲を下して、それからようやく我に返るのだ。

 

難しいことだけど、熱に浮かされたみたいに湧き上がる感情に身を任せてしまうのではなく、「この不快や胸の痛みはどこから来ているのだろう?」と立ち止まって考えてみることが、自分と相手の幸せのために本当に大切なことだ。

 

相手を抑圧し何かを強制する呪いの言葉は、けしてその人を救わないし、何ひとつその人の人生を好転させることはない。

むしろ逆で、ブーメランのように必ず自分に真っ直ぐ返って来て突き刺さり、呪いを吐いた人自身を傷つけ、蝕み続ける。

 

その痛ましい連鎖を断ち切るには、私はうらやましくて悔しいんだな、と自覚して、「じゃあ自分も楽しく幸せなほうへ行こう、今からでも!」と明るく思うクセをつけていくのが一番だとは思う。

 

しかし、そんなこととてもできないほど深いトラウマを抱えた人においては、「誰にも、自由に、その人にとって良い選択をする権利がある。自分を正当化するためにその人を妨害することは誰にもできないんだ」ということを、歯を食いしばってひとつずつ認めていくことを積み重ねていくしかないんだと思う。

 

自分は、そうやって悔しさを自覚しながら善きバトンを渡すことが自分を癒してくれた経験を機に、この世の仕組みに少しだけ触れて楽になってきたような気がする。