続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「ROMA」

f:id:beautifulcrown7:20181231110322p:plain

2018年メキシコ・アメリカ合作/原題:Roma/アルフォンソ・キュアロン監督/135分/日本公開2018年12月14日〜(Netflix

 

あまりの心地良さに2度寝落ちしてしまったこの作品。

寝てしまったのはいずれも冒頭のところ。お話がぐっとドライブしてからは一気に惚けるように見入った。

 

隅々まで端正で、心が気持ち良さに弛緩するような、素晴らしい映像美を持つ作品。

映画とは何か、という根本的な問いが心に浮かぶような、真摯な映像表現の粋を極めた作品だと思った。誰もが言うだろうが、映画館で見たかった。

 

たまらなく美しい。見ているだけで心が洗われるような映像だった。

とりわけラストの海のシーンは、美しくて怖くて悲しくて愛おしくて、言葉もない。ずっと記憶に残ると思う。

 

メキシコの中流階級出身のアルフォンソ・キュアロンが、自身の少年時代の心象風景を家に住み込みで働いていた若い家政婦を中心として編んだ、物静かな作品。
控えめで辛抱強く、心優しいクレオ。非常に言葉少ななのだけど、つぶらで訴えかけるような黒い瞳でただじっと全てを見ている。

 

全編を通して、非常にデタッチなカメラワークが用いられていて、しかもじっくりと観察するような、ゆったりとしたパンあるいは定点の長回しのカットが多用されている。

どの画を見ても、完璧に思えるような美しい構図で、世界があたかもひとつの舞台装置のように思われる。

その中で、人間たちの悲喜こもごもが繰り広げられて、その中には情も非情もいっしょくたで、親密さと残酷さが同居している。

 

人間世界を俯瞰で見るような感覚で、人間のちっぽけさや普遍性に静かに思いを馳せる。同時に強烈なノスタルジーを感じる。

 

ベルイマンフェリーニに似ている、というかこれは完全なるオマージュと言えるだろうけれど、もうとうに忘れ去られてしまった古い映画のスタイルを、その良さを少しも損なわずにモダンな感覚をもって再現させたことが素晴らしいと思う。

 

 

日々色々な映像作品を見ている中で、どんどんスピードが過剰になっていくことに気付かされる。

カット割がどんどんどんどん早くなっている。アメリカのTV番組などは、もはや神経症的な呼吸感に思える。見ているだけで息があがってくる。

 

ストーリー展開も同様、スピードが上がっている。サスペンスやパニックアクション的な要素を持つ映画は尚更のこと。息つく暇もないということが退屈を感じさせないための装置として働いている。せわしないことをエキサイティングとはき違えてしまっている向きもある。

 

「ROMA」は、こうしたスピード過剰でヒステリックな現代の表現に対する力強いアンチテーゼとなっている。

ただ思わせぶりに長いのではない。人間の皮膚感覚としての心地良さに基づいて、非常に緻密に考えて作られている。

 

ベルイマン作品を見ている時の感情を、この映画を見ていて久々に思い出した。

それは目の前に映っている全ての要素を味わい、感じながら見るという感覚。

 

空の高さや、風の冷たさや、料理の匂いや、草木の匂いや、太陽の眩しさや、抱きしめた時に触れたむき出しの皮膚の感覚、失われゆく愛や、生まれてくる命や、人と人の分かり合えなさや思いやり。そうした人間世界のさまざまな手触り。

 

五感に基づく感覚の再現をする時、多くの人は、自分自身の記憶にアクセスするものだと思う。昔体験した場所、時代、関係性などを思い起こして、イメージを膨らませるのだ。

奥深いところに眠っている記憶にアクセスするには、「少しの間」を要する。

そして、この作品の持つ間は、各々の記憶にアクセスするのに必要充分な、絶妙な間合いを持っていると感じられる。

 

五感のイメージを伴いながら映像を見ることで、作品における人の営みのなかにある、優しさも、残酷さも、ぬくもりも、日常の強さも、たまらない深い味わいをもって感じられる。 

いつか見たあの風景、あの人と過ごした時間、あの海の広さや吹いていた風の匂い。そうした自分自身の記憶と映像のイメージがないまぜになって、ひとことで説明できないような複雑な豊かな感情を引き起こすのだ。

甘い憧憬や、苦い後悔。胸が締め付けられるような何か。

ただひとつ確かなのは、良いことも悪いことも、今では全てが過ぎ去ってしまった、ということ。

 

だから、この作品が見る人にどういう感覚を引き起こすかは、人によって異なると思う。心の引き出しにまだ何も納まっていない子供や若者には、響きにくいかもしれない。

そういう意味において、これは大人の映画である。

 

 

終わり方も素晴らしかった。家に帰ったクレオが、大きな洗濯物を抱えて、屋上へ干しに行くのだ。中庭でちょっと言葉を交わして、外付けの鉄階段を登っていく。屋上に着いてクレオの姿がふっと消える。ゆっくりと空を飛行機が横切る。

 

始めから最後までずっと水平の左右のパンの動きだけしかなかったのが、初めて下から上へ動き、空を映して固定される。

そして「Para Libo(リボへ)」というメッセージが空に浮かんで、そのまま風景が固定されてエンドクレジットにつながって行く。

なんてミニマムで、優しい余韻を残す終わり方だろう。

 

キュアロンの思い。

まだ幼い少年で何も分かっていなかったあの頃の自分。

母のように思っていたけれど、今の自分に比べたら、リボは少女のように若かったのだ。彼女が自分の家族のためにどれだけ働きづめであったか。

リボに自分はどんなに世話になったか、どんなに苦労をかけたか、どんなに彼女を母のように愛していたか。

 

ひとつも文句を言わず、静かに微笑んで、淡々とまた日常に戻って働くクレオの姿をただ見せる以上に雄弁なものはない。

 

なんて自分は、守られて幸せで、なんにも分かっていなかったんだろう。

 

誰かしらそういう人を持っている、かつて子供であったことがある全ての人が涙せずにいられない。素晴らしい作品だった。