続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

偏見と差別について

ボヘミアン・ラプソディー」から派生して思うことをもうひとつ。

 

子どもの進路についての話を友人・知人・先生たちとすると、先日も書いたが、おしなべて「同年齢集団の規定のルートから落ちこぼれる」ことへの恐怖がとても強いことにびっくりしてしまう。

 

定時制通信制高校や、不登校の子が通う学校、偏差値の低い学校に対する偏見、というか恐怖感?も、ものすごい。

 

人間が思考停止する条件は、

①恐怖(fear)

②義務感(obligation)

③罪悪感(guilt)

だとあるセラピストが本に書いていた。ほんとにそのとおりで、我が身を振り返っても強く反省の気持ちを感じつつ共感する。

 

私は自分が間違いを起こさないために、常々「不安と恐怖を煽るものには自動的に脳内アラートが鳴るように」「そのことを聞いた瞬間生命力が上がることを選択し、下がるものは遠ざける」を心がけているんだけど、②と③に対しては結構無自覚であった。

②と③のせいで、生命力の下がることを引き受けてしまうことが多々あった(泣)。

これもつけ込まれどころであったと気付くことができたので、今後はよくよく注意していきたい。

 

子どもの進学に対する同調圧力も、①〜③がもとになっていると思うのだけど、私は周囲の人と話していて、それに加えて「偏見と差別」も大きいものがあるなあ、と感じている。

 

偏見・差別は、誰かを「普通でない」と断じて上から目線で排除する行為。

差別する側は誰かを線引きして、自分たちは「普通」で安全地帯の側にいると思っているのだけど、一周回って自分をも排除することになっているというのが、差別の本質なのだなあと改めて感じている。

 

自分はものを知らないし、「偏差値の高い大学に入って就活に勝利して、大企業に入って、モーレツ社会人になる」という既存のマジョリティーが目指すルートに1ミリも魅力を感じず、子どもにそれを目指してほしいとも心底思っていないので、学校に対して「こうじゃなきゃ普通じゃない」という前提がそもそもない。

 

ので、大層な思想は全然持っていないが、そもそも「普通でない」学校に対する偏見と恐怖を持つ必要がない。

 

最近では、「高校にどうしても行く必要ってあるのか?」と思うことが多いくらいだ。

私がいいなと思う大学の先生たちは、新たな学びを始める以前に、「中・高で頭がちがちの指示待ち族になった子どもたちの思い込みを外すことにまず結構な労力を割く必要がある」と言っている。

 

中・高と違って、大学以上の教育では本人の興味に沿った自由な選択が可能なのだから、本人が望むなら大学生という豊かでモラトリアムな学びの時間を過ごすのは個人的にはとても良いことと思っている。

しかし、そのために必ずしも高校を卒業せずとも、世には大検というものがある。

 

いっそ高校時代は、つまらぬ場所でつまらぬ授業を無理に受けるくらいなら、旅してた方が有意義では?と思うくらいだ。

我が家では家を出ることも提案してみたが、優太自身が「高校の間は家族と一緒に暮らしたい」とのことだったので、あっそということになったのだが。

 

脱線したが、何かに偏見と差別を持つ事、つまり「普通」に固執することは、「普通」からこぼれ落ちる恐怖を自分自身に規定することとイコールであり、結果的に選択の自由と心の自由を狭め、義務と努力を強制し、自らを苦しめる行為とイコールになってしまっていると感じる。

 

そして、学校のことに限らず、これは全てのジャンルについて言えることだ。

 

どうして近年、自分が「社会の中の弱者」に強く惹き付けられ、それを知り学ぶことに結構な時間を割いて来たのか、改めて分かる。

自分は別段人権的でも善良な人間でもない。ただ自分が生きていて、広々とした自由を味わっていたい。自由が好きな人間だからだ。

 

あらゆる病、あらゆる障害、LGBTQ、美醜、才能の有無、老い、貧困、孤立、不合理、理不尽、腐敗、暴力、強制。

こうしたことに「ああはなりたくない、あの立場になるのはごめん」と見下すことは、良いとか悪いとかいう以前に、今ではもうきりがない、無理筋の考え方なのだ。

 

一億総活躍なんてとんでもない。

一億総弱者なのである。ほんとうは。

誰もが普通にしがみつき、おちこぼれないことに必死。

皆「わたしはちゃんとしてます」というていでいるけれども、

これだけ厳しい世の中で、全ての「普通」をクリアーしている人なんて、果たしているのだろうか?

第一、がんも認知症も二人にひとり。老いて死ぬに至っては、100%誰もがそうなる。誰もが非当事者ではいられないのだ。

 

弱者を切り捨てる、偏見と差別の世の中に生きていることで、誰もが実は深い不安と恐怖に耐え、劣等感や挫折感を感じ、他人を傷つけながら自らを傷つけている。

 

それが「自己責任」を叫ぶ世の中の正体なんだと思う。

 

そうして冷たい心と傷ついた心の狭間にある人が今とても、とても多いからこそ、

皆フレディに心を寄せているのでしょう。

 

フレディは、ある意味、欠点だらけの人物だった。

彼は、世の中の要請する「普通」にことごとく応えることのできない人物だった。

音楽のずばぬけた才能はあったものの、その他においては別段偉人だったわけでもなんでもなかった。マイノリティーで引き裂かれたセクシャリティーを持ち、容姿端麗でもなかった。そして人並みの優しさやずるさや愚かしさを持っていた。

 

私がこの映画についてあらゆる感想を持つ以前に、圧倒的に感慨深く思ったことは、

フレディは「our side」にいる。弱くておろかな自分たちの仲間なんだ、という実感だった。

 

誰もがフレディの中にだめな自分をそれぞれに見る。

そんな不完全で数々のハンデを背負った、しかも余命幾ばくもない人が、

ひとつも言い訳せずに命を燃やして、「We are the champion」と歌い、叫ぶ。

 

あなたは自分の人生を十全に生きているか?それで本当に悔いはないか?

フレディはただ歌うことで見る人にそう問いかけているのだと思う。

 

 

偏見と差別を必要悪と甘んじて生きることは、

数限りないジャンルの「普通」にしがみついて生きることの奴隷になることにつながっている。

相手のためとか正義とか以前に、自分が自由に幸せに生きるためには、差別と偏見はさまたげにしかならないのだ、といま一度心に刻んでおきたい。

 

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