続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

家庭の問題

ジェーン・スーの「生活は踊る」の人生相談コーナーが好きで、時々ラジオクラウドで家事をしながら聴いている。スーさんの返答はいつも、通り一遍のものではなくて納得性がある。

いつも世の中にはいろんな人がいるなあと思いつつ聴いているのだけど、こないだ「これって私のことだ」と思う相談があった。(2020/10/22オンエア分)

 

それはこういうもの。

3人の子供の母親。家事や子育てに追われながらも、表面上穏やかに暮らしている。

でもここ数年は粘度の高い泥のなかににはまり込んで身動きができなくなっているような気持ちでいる。

 

田舎で勉学に励み、奨学金を得て東京の大学に通うために上京。就職氷河期末期、商社の営業職として就職。総合職女性の割合が1%という男性優位の会社。刺激や学びの多い仕事だったが、接待で頻繁にホステス役をやらされた。その延長線上の身体接触含むセクハラが苦痛で4年で転職。

転職後半年で妊娠のため退職して専業主婦になる。

その時には自分が仕事を好きなこと、一度ブランクを持ったら再び正社員の職を得るのが難しいことに気づけなかった。

 

仕事をしていないと保育園には預けられないので、幼稚園に。PTA、ママ友付き合い、行事なども忙しく再就職の機会は得られず。

夫は協力的だがとにかく残業が多く、家族のためにフレキシブルに動く役割を自分が担う必要があった。

上の子二人が幼稚園に入った頃、子育てと両立できる在宅ワークを始めるも、夏休みや行事が多い時、子供の病気時には働けず、時間の制約で請けられる仕事も限られる。5年やってもいつ失うかわからない、他に選択肢がないからやっている仕事という意識は抜けない。

 

本当は家庭を出て組織の中で働きたいが、主体的に家事育児を担う自分は捨てられない。

でも、もうそのチャンスは巡ってこないかもしれない。

 

地域役員も子供のスポーツ団の役員もめんどくさい。でも誰かがやらねば回らない。

今の暮らしもそれなりに楽しいし夫は愛している。けれど思い切り働ける夫が恨めしい。

やりたいことがたくさんあるのに、やらねばならぬことにかき消され、やりたいことが何だったかを忘れていく。

 

「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んでおいおい泣いた。

若い頃、やりたいことを後回しにして努力して得たものが、社会に出ると役立たないという現実に時々打ちひしがれそうになる。

いつも心の中に渇望感がある。どうしたら解消できるんだろう。どう折り合いをつければいいのか。

 

この女性の歩んできた流れと自分との間にはいくつも共通点があり、流れ着いた場所も似ている。やらねばならぬことを必死にこなしているうちにだんだんやりたかったことを忘れていくというくだりには、胸がせつなく痛んだ。

 

驚いたのが、たまたますごく似た境遇の人がいたんだなと思っていたのに、番組アシスタントの男性も、記者の男性も口を揃えて「うちの妻のことかと思いました・・・」とひどく歯切れの悪いトーンで話していたことだった。

そうか、私みたいな流れの女は一定数いるのだ。ていうか、私って、わりと細かいディテールに至るまで、この世代の女のある種の典型の一つなんだ。

薄々思ってきたことではあったが、改めて突きつけられたようで、なんだかやりきれない思いにかられてしまった。

 

「82年生まれ、キム・ジヨン」は、時代のすごい物語なんだと思う。

この作品は、本国の韓国でも非常に物議を醸した作品で、映画化に際しては、主演女優がバッシングを受けたりしたが、どうしてヒステリックな反応が起こったのか、よく分かる。

それは、この作品が、家父長制の社会における「家庭の問題」が個人の問題ではなく社会構造の問題であることを白日のもとに晒したからだ。

女性が男性に仕え、男性社会のサポートメンバーとして生きることが、彼女の能力や甲斐性のせいではなく、社会が公平な機会を奪い、巧妙に幅寄せするように彼女の居場所を狭めてきた結果だということを広く気づかせてしまったからだ。

 

もちろん、これまでも社会学者やフェミニストなど、色々な人が繰り返し訴えてきたことではある。けれど、優れた物語の力はそれだけ大きいということなんだと思う。

一人の切実な思いを抱えた若い女性の生きざまは、これまで女性たちが言ってみてもどうしようもないからと長い間言わずに押し殺してきた思いを代弁する強いヴォイスを持っていた。

 

 

この相談者の話を時系列で見ていくと、いくつものトラップが用意されていることがよく分かった。世の中的には、そのトラップにかかった女性が悪い、ということになっている。それを選んだのはあなただよね、だから自分で責任をとってくださいね、と。

しかしこれは、実際はほとんどシステムといっていいほどに硬直的な、構造的なものであると、今振り返ってみて改めて思う。

 

男性と仕事内容は同じで同等の機会が与えられているように見えても、数の上で圧倒的に少数派で孤立した状態で若い女性が働き、性的に消費されてもそれに抗えないような雰囲気の中でだんだんと空虚になっていく。

今はひと昔前ほどあからさまなセクハラは減っているだろうが、少数派であることや明確な基準が示されないまま男性の方が優遇されたり出世したり、重要なポジションを独占したりという状況は続いていると思うので、女性がいわゆる総合職的な位置付けで長く働くほどに空虚になっていく構造は今もあると思う。

 

女性が自立して生きていく上での袋小路、また同調圧力の強い社会のありようや女性の妊娠出産における身体的リミットも相まって、あらゆる葛藤から解放されたいと願う女性にとって、結婚出産は不可避的な選択肢となる。語義矛盾だけど、それがこのことの本質をあらわしてもいる。

訳の分からない漠然とした、真綿で締められるような苦しさの中で、多くの女性がその選択肢を選ぶ。でも、それで一旦仕事を辞めてしまうと、新卒で入ったような大きな企業に再び正社員で入ることは難しくなる。

高度な専門職を除き、学歴や経験を生かせるケースは少なく、どんな経歴の人も一律、最低賃金で派遣やパートタイムの労働者に流れていく。

 

そうすると、夫と同じ時間働いても賃金に大きな差があるので、仮に妻がメインでばりばり働きたいとなっても、夫と役割を入れ替えることはもはや難しくなる。

夫は働くことはあなたが好きでやる「趣味」だから、家事に支障のない範囲で家族に迷惑がかからないようにやってね、とはさすがに言わないまでも、そういう考えは当たり前みたいな感覚がある。

 

確かに働きたいから働くのだが、フルタイムで働いても収入は焼け石に水みたいなことだったり、本腰を入れて夫の扶養から外れると、たくさん税金を取られて損することになるので、扶養の範囲内で収まるように自らブレーキをかける。

仕事で疲れていても家事育児はきちんとこなさなければ、妻として母として落第点をつけられる。

あまりにわりが合わず、肉体的にもしんどいから、もう働かなくていいか、と社会と繋がることをまるっと諦める女性もいる。

 

何より、この女性に不利な状況でシングルマザーで家庭を切り盛りしている人たちの大変さは大変なものだと思う。サポートはあっても不十分で、彼女らはあたかも「いないもの」として制度設計されているに近い状況がある。

 

女性には、地域における奥さん、お母さんの役割も担わされる。人によってはそこに親の介護も重くのしかかる。

 女性は、家族、地域社会、子供の関わる団体・組織のために、無償で労働することをずっと要請され続ける。

 

もちろん、何もかもが苦役な訳ではなく、その中に楽しいことや良かったなと思うこともある。お金をもらえたらいいということでもない。

けれど、概してそれらの仕事はお金を稼ぎ出さないことだから軽んじられる。大事なこととは見なされず、楽で片手間なことでしょう、と。

実際はめちゃくちゃ責任が重いうえ、やらないことをほとんど許してもらえないほどに強制性が強く、それらを拒否するのは相当な勇気も罪悪感も伴う。

 

役割を必死にこなしているうちに40才になって、さらに働けるフィールドは狭まっていく。法律上は禁じられていることになっているが、35才、40才を超えると新たな仕事に就けない女性は突然増える。

子育てのブランクを経て、条件の良くない仕事を辞めずに必死に続けている高学歴で実務的にも優秀な女友達が何人もいる。

「前もってこういうことなんだと誰かに教えてもらいたかった。4年も大学に行って必死に勉強する意味なんかなかった」とお酒の席で自虐めかして言っていた友達の言葉がずっと忘れられないでいる。

 

なんて「よくできた」多重構造のトラップなんだろう。女性を「同じ土俵に上らせない」ために幅寄せする法設計の巧妙なこと。

だから、起業すればいいとか、役員は断ればいいとか、「じゃあこうすれば」というような簡単な答えではないのだ。

気の持ちようでもなく、何かを改善すればいいということでもない。夫も含め、分かりやすい悪者もいない。

男性も男性で、社会に対する不自由さや辛さを抱えている人がたくさんいる。

 

 

私たちは、長い時間をかけてここに流れ着いた。

私も、他人から見れば取るに足らない平凡な人生かもしれないが、自分なりにもがいたし、楽しみもしながらここまでやってきた。

誰もが限られた条件の中で与えられた手持ちのカードを使って自分なりのベストを尽くすしかないのは同じ。

だからその流れもまたいいものだったと思っている。自分の人生に一定の納得感はあり、流れの中で出会えた人やものたちに感謝している。

ただ、その流れは巧妙に誘導されたものだった。その現実が本当に肚に落ちた時には、もう40才を過ぎていたということだ。

良いことも悪いことも含め、事実としてそういうことなんだ。

 

 

スーさんはこう言っていた。

彼女は何も間違ったことはしていない。第一、これが個人の努力で対処すべき「家庭の問題」ならば、家庭ごとで違う問題が起こっているはず。

それならどうして皆がこんなに似た状況に陥っているんだろう?

どこへ行ってもその話になる。夫たちは申し訳なさそうに、後ろめたそうに言い淀む。いやいやいや!なんで夫が加害者で妻が被害者みたいになってんの?

 

だとしたら、これは「家庭の問題」ではないんではないの?

 

 

また、自分の妻が相談者のように思う可能性を考えもしなかった、我が家はうまく行っていると思い込んでいたという男性アナウンサーの言葉が印象深かった。 

家庭のやりくりと、家族それぞれが個人として「こうありたい」っていう生き方、形にしたい欲っていうのは別に存在するものなんです。

 

 妻に限らず夫にだって言えることだと肝に銘じる。うちなんて、問答無用に赤ちゃんがやってきたわけで、この先個人としてこう生きて生きたい、という希望なぞ向こう20年は軽く吹っ飛んだというのは、私よりむしろだんなさんの方が強く感じていることなんじゃないかって。

 

不平不満を言いたい訳ではなくって。恵まれている自分を自覚してもいる。

第一、あまりにも今さらじゃないですか。

私自身は、相談者さんの感じているような渇望は、もうなくなってしまった。いろいろ自分の中で終わってしまったなと思う部分はある。

 

一度きりの人生だから、現状を正しく認識した上で、自分なりにしたたかに、楽しくやっていくしかないじゃないか、と思っている。

ゲームのルールをいま一度リアルにクールに検証し、手持ちのカードで作戦を練る。

誰かに自分の人生の大事な時間を不本意に奪われず、極力自分のやりたいようにやる自由を得るために、なるべく生きている時間が心地良くあるように、作戦を練る。

「シカゴ7裁判」

ポスター画像

2020年アメリカ/原題:The Trial of the Chicago 7/監督:アーロン・ソーキン/130分/2020年10月9日〜日本公開

 

元々法廷劇は好きなので期待して見たけれど、すごく面白かったし、歴史の勉強になった。

折しもアメリカ大統領選挙間近のこのタイミングでの公開。この実話ベースの物語のシチュエーションは、今現在アメリカで起こっていることとあまりに相似形である。

 

ソーシャル・ネットワーク」の脚本家であるアーロン・ソーキンだけに、複雑な社会的背景が上手に整理されていただけでなく、独特のロジカルさとスリリングで胸のすくような展開に高揚させられた。

そしてラスト。あれは史実の通りだったのか分からないけれど、思わず涙が出た。

 

俳優たちの競演も素晴らしく、一気見だった。中でも、これまであまりにアクが強くて引き気味だったサシャ・バロン・コーエンの素晴らしさが印象に残る。

アメリカにおけるコメディとは、権力を徹底的に茶化し、笑い飛ばし、こき下ろすことによって非暴力的に権力を無力化するもの。

鋭く、怖い笑いであると同時に、ある種の覚悟が常に抱かれている。

本物のコメディアンとは、誰もついてこれないくらいにどこまでもふざけていて、決しておもねない。吉本の某芸人などのような権力と馴れ合うようなのは、コメディアンとしては最も恥ずべき姿勢なんだと思う。

 

アビー・ホフマンのような人物を演じて、サシャ・バロン・コーエンもコメディアン冥利に尽きただろうな。何しろ格好良かったもの。

アビーはユーモアによって人間のもつ攻撃性を優しくなだめて無用な争いを避け、自由と平和を脅かす者の化けの皮を剥がし、本質を相対化した。

本当に賢い人のインテリジェントの用い方を見た思いがした。

 

久しぶりにジョセフ・ゴードン・レヴィットも堪能したし、出番は少ないがマイケル・キートンはやっぱりさすがの存在感だった。

 

 

それにしても、歴史は繰り返すというか、人間って成長しない生き物なんだという厳然たる事実。

だから、人間が基本的にアホであるということを込みにして、制度設計しなければならないんだと思う。権力に関する法設計は、性善説に基づいて作っては絶対にいけない。