続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

コンペティションは本当に必要か

今回のショパンコンクールは、かてぃんは出ているし、反田恭平はリアルピアノの森になってるし、あれこれ話しかけてくる息子氏につられてなんだかんだでよく動画を見た。

個人的にはすっかり小林愛実のファンになった。なんて素晴らしいピアニストなんだろう。指に羽根が生えてるのかというくらい力みのない反田恭平の演奏も素晴らしかったけど、彼女の情感溢れる演奏は今回の大会を通じて一番のお気に入りだった。

 

それにしても、ショパンコンクールは私みたいな素人からすると天上界のやり取りというか、もう全員天才でええやんとしか言いようのない世界の出来事である。あとはもう好みの問題でしかないと思う。

このコンテストはその周到で時間をかけた審査の進め方も含めてピアノ界のオリンピックの一つであり、この極度の緊張の舞台を楽しんで見ながらも、どうしても人間はなんとか順位をつけたい生き物なのだなあとつくづく思ったことだった。

 

ピアノに全てを捧げて一世一代の舞台を目指してきた天才たちの渾身の演奏は、観客にとってはこの上なくドラマチックで最高のエンターテインメントである。コンテスタントの指の震えすら、見る者を興奮させる。

彼らにかかっているプレッシャーや負荷を思うと途方もない気持ちにさせられる。

こういうことを言うと身もふたもないのだけど、一番を決めるということに、一体どれほどの意味があるのだろうと、それぞれが素晴らしいだけに思わずにはいられなかった。

もっとも、コンテスタントたちは最終的には自分の納得のいく演奏ができたかが全てで、勝ち負けにとらわれているようには見えなかった。このレベルに達するとそりゃそうであろうとは思う。

 

私自身は、子供の頃からのあがり症でもあり、今では一発勝負で運命が決まるみたいな極度の緊張を強いる、かつ失敗が許されないシチュエーションはできる限り避けて生きるのがいいという考えで落ち着いている。

ひとつ間違ったら全て水の泡みたいなことって、残酷だし、本質的じゃないし、不必要なプロセスである場合も多いと思っている。

ショパンコンクールのものすごい緊張感に立ち向かって演奏する人を見て私たちは感動するし、そういうプロセスを経てこそ見えてくる景色もあるんだろうが、かと言ってプレッシャーに打ち勝って勝利しなければダメな人生というわけではないと思う。

戦う人を否定しないし、凄いなと素直に思うが、「戦え立ち向かえ死ぬ気でやればなんでもできる、逃げるな諦めるな」みたいな思想は当然のようにまかり通っていて、まるでこの社会ではコンペティションから逃げては人としての成長もないみたいだ。でも、本当に全ての人生にコンペティションは必要なのかな?

 

我が家の高校3年生と中学3年生は来春次のステージに進むわけだが、二人ともいわゆる受験はしないということになりそうだ。いいんじゃないかなと思っている。

専門分野に応じた、その組織の構成員が共有しておくべき一定の知識やスキルを査定する必要は当然あるが、日本の受験や就活など(もちろん全てではない)の「候補者を落とすために本質を超えて極度の負荷をかける厳しすぎる競争システム」はちょっと行き過ぎているのではないかと個人的には思う。だってたかが学校や会社に入るためのことだ。学校や会社に入るのが命懸けみたいになってるのって気持ち悪い。

「自分がどのレベルにあるか」によって選択肢が半自動的に決められるみたいになってしまって、自分の意思は二の次になるのも変だ。

このゲームになんとか勝ち抜けなくては、と思った時点で、なんかもうまんまと長いものに巻き込まれていると感じる。

 

そんな自己肯定感を爆下げするような過酷なゲームにあえて参加せずとも、子供たちには自分のやりたいことを自分なりにやれる道を、自分の頭で考えて見つけていって欲しい。

そうは言っても、この社会に生きていて査定されるシーンにはたびたび遭遇すると思う。その時に、コンペティションに対する割り切りを身につけておくことは人生を生きていく上でわりに必要なことではないのかなと思う。

厳しすぎる査定を真に受けて「自分は必要とされていない無価値な人間だ」と信じている人は、この国ではとても、とても多い。だからこそ毎年3万人もの人が自ら命を絶つ。こうして書いている自分もしばしばそんな思いに囚われることがあるくらい、その呪いは強力だ。

 

死んだばあちゃんは「学校は縁があるところに行ったらええんじゃ」と言っていた。一周回ってほんとその通りだなあと思っている。

「MINAMATA」

ポスター画像

2020年アメリカ/原題:Minamata/監督:アンドリュー・レヴィタス/115分/2021年9月23日〜日本公開

 

小学校の教科書で、枯れ枝のように細った極端に曲がった手足の水俣病患者のモノクロ写真を見たのが、水俣病についての最初の記憶だ。見開いた瞳は虚空を見つめ、口が大きく開いていた。学校では「高度経済成長期の公害というものによって、このような被害を受ける人が生まれた」という簡単な説明以上のことは教わらなかったし、その異形が子供の自分にはただ恐ろしかったので、その時はそれ以上この公害病について知ることを避けてしまった。大人になってからも、詳しい知識は結局持たないままここまで来た。

だから、2時間集中して水俣病に向き合ったのは恥ずかしいことだが初めてのことだった。このアメリカ映画を通じて、自分の国の犯した、今も抱え続けている恐ろしい罪(ほんの入り口なのだろうけど)について私は初めてまともに学んだ。

水俣市はこの映画に協力しなかったので、本作の撮影は全編セルビアで行われた。大量の日本人エキストラも、現地で調達したと記事で読んだ。日本はこの事実に今も向き合っていないということのあらわれだ。

 

今、この作品を日本で見られることの意味は小さくないと思う。

経済優先で、人命を軽視した、国家ぐるみの犯罪の総括も検証も反省も不十分なままここまできた、そのような国のありようは、パンデミックにおける棄民政策や、経済界の利権重視の間違った施策、税金の流用の姿勢にそのまま繋がっていることは明らかだ。

この国の、弱者に対する態度の冷たさ。臭いものには蓋をするという振る舞い。それは遠いどこかの誰かの話で、自分には及ばない、だから気の毒だけど仕方がない、という気持ちから来ている。

しかし、自分さえ良ければいいという短絡的な考えで弱者や少数者を見棄てることを許せば、それはいつか必ず自分にはね返ってくる。誰もがいつか老いて、病んで、死んでいく、人間はいつか必ず全員が弱者になっていくのだから。

 

チッソは今も大企業として普通に存続しているし、これだけ相関関係が明らかであるにもかかわらず、公害病として認定されず何の補償も受けられていない患者が今も大量に存在する。水俣を心から省み、そこから学ぶということから逃げたことがコロナ禍のあらゆる分野における人災に繋がっているように見えた。我々は今、水俣を見棄てて繁栄してきた社会に復讐されている。間違った政治や沈みゆく経済の中で、ずっとツケを払い続けている。

 

日本以外の国においては、この作品はより環境に対する問題意識をもって見られることだろうと思う。日本は欧米に比べて地球環境についての意識がまだかなり低いが、特にヨーロッパではまず何よりも環境問題というスタンスに急激に変わりつつある。

この作品は、経済優先で自然を壊し、人の命より金儲けを優先させてきた人間社会のありように対する強力な投げかけになるだろうし、その意識はエンドロールで流れた、数えきれないほど世界中で起こっている水俣病のような公害被害を伝える映像でも明示されている。

 

またこの作品は、テーマの重要さに負けないくらい、映画としてもよく出来ていたと思う。美しく、スリリングでもあった。「入浴する智子と母」の撮影シーンは、あまりに凄すぎて、ただ涙した。ユージンが最終的にこの圧倒的な写真を撮るまでの軌跡に、ユージンの心の変遷に納得性があったゆえに深く感動させられたのだと思う。

近年のジョニー・デップの中では出色の出来、というかこの人生崩壊気味のユージン・スミス氏とデップ氏はどこか似ていて、繊細さに耐えられないために自堕落人生になってしまっている人のある種の破れかぶれ感にはなんともいえない真実味があった。役柄を深く理解し、ある部分では地でやっているように見えなくもなかった。

立派で強く正しくちゃんとした人が気の毒な民を救いたい、のではなく、ユージンが、自分も相当ぼろぼろでいい加減で、どうでも良くなったりめんどくさくなったりもしながら、でも公平で謙虚な心根を持つ人であり、写真に取り憑かれた人であり、そんな存在丸ごとでなんとか踏みとどまるようにして水俣に関わっているさまがすごく良かった。