続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「きのう何食べた?」が教えてくれたこと

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きのう何食べた?」、風呂上がりに子供たちとソファでだんごになってくすくす笑いながらちょっとずつ見て、見終わってしまった。あーさびしいなあ〜。

 

いい人しか出てこない作品で、安心してにっこりしながら見られた。

人々の無理解や世知辛い世の中に傷つけられたりすることもありがながら、マイノリティーのふたりがこつこつと日常を紡ぎ、身近でおいしい食べ物を介して笑顔でつつましく暮らすさま。

自分に嘘をつかなくっても無理をしなくっても、いやそれだからこそ納得性のある生き方になっていく。

 

この作品、上澄みのきれいごとと言う人もあるかもしれない。

生々しいものは極力排除されていてキスシーンすらなかったし、主演の2人は最後までゲイには見えなかった。誰が見ても抵抗を感じにくいくらいのライトさで作られている。

だんなさんは「女の人ってBLが好きだよねー」というちょっと冷ややかな反応であった。むか。

 

たしかに「ミルク」のショーン・ペンや「フィリップ、君を愛してる」のユアン・マクレガー(どちらも役者を見るだけで値打ちありの作品と思う)の滲み出る圧倒的なゲイネスとは別世界ではある。

 

でも、これは原作の良さだと思うけれど、これだけ同性愛の人が同性愛という属性だけにフォーカスされるのではなく、あくまで普通の生活者として描かれながら、ヘテロセクシャルの人間が気付かない苦労や悲しみを抱えていることを優しく示してくれる日本の作品ってあんまりなかったなあと思うのだ。

 

何の説教臭いこともないからこそ、共感と自省を促す。

差別や偏見に関わることこそ、きっと語り口は朗らかで優しいものがいい。

北風と太陽みたいに。

 

この作品を見ていると、彼らが「違う」のは異性じゃなく同性が恋愛対象なのだという部分だけ、ただそれだけじゃないかと普通に思う。そのことでこんなにも罰せられなくてはいけないのは、なんて気の毒なことだろうと。

 

同時に、作品の中でケンジが口ぐせみたいに「しあわせ〜〜♪」と言うのだけど、当たり前って思うことは実につまんないことだなと。

 

結婚制度による契約関係も子供というかすがいもない関係性においては、愛する人に出会えて、一緒に暮らして毎日「おかえり」「ただいま」と言い合えること、「いただきまーす」と向かい合ってご飯を食べられること、そんな当たり前のことたちは日々の努力と支え合いの上にある。

 

その「有り・難さ」をいつも噛み締めることのできる謙虚さは、いろいろ当たり前と思って足りない部分を探していたり、もっともっとと欲張っていては感じられないことだから。

しかし安心感を得る事の難しさ、背中合わせにある強い喪失への不安も同時に感じて、そこは見ていてせつなかった。

 

日々の心構えに尽きることで、毎日反省ばっかりだけど、何度でも思い出したい。

 

シーズン2を期待して、楽しみに待つことにしよう。

「さよなら、僕のマンハッタン」

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2017年アメリカ/原題:The Only Living Boy in New York/マーク・ウェブ監督/88分

 

ストレートに怒るということを塞がれているような世の中の反動があるのか、良くも悪くも感情を暴発させたみたいに、ぎゃー!わー!ぐおー!と絶叫しているような映画が増えているように思うのは気のせい?フラストレーションを映画が観るひとの代わりに発散しているかのような。

 

しかし、いささか食傷気味なので、もうちょっとさらっとした作品が見たいな、と思うこのところ。現実でもフィクションでもあんまり下品だったりあけすけだったりするものばかりだと、時々疲れてしまう。

 

だからって、現代の作品に「サウンド・オブ・ミュージック」ばりの清らかさを求めても嘘くさいばっかりになって、これはこれで鼻白んでしまう。

なかなかリアルとファンタシーの塩梅が難しいのだ。

 

NY・マンハッタンのスマートでお洒落な人々の色恋沙汰を中心とした悲喜こもごもを描いた映画っていくつも思い浮かぶけれど、好きな作品が多いなと改めて思う。

マンハッタンを舞台にした作品には、他の場所ではけして代わりがきかない独特の魅力がある。

自由でファッショナブルでアーティスティックな暮らしに加え、特定の価値観による抑圧が少ない何でもありっていう大らかさや、一人ひとりが自分はこれでいいと良くも悪くもきっぱりと自己肯定して生きているたたずまいが私は多分好きなんだと思う。

 

さて、マーク・ウェブの描くマンハッタンはどんな風景と人間模様を見せてくれるのかな、と気楽に見た。

マーク・ウェブは、スパイダーマン系以外の2作品を見ているが、毎回プロットは一見クセがありそうなのに、ごく素直なハッピーエンドの物語になっている。ひねくれっこの私にはちょっと食い足りないくらいの、今どき珍しいような直球さだ。

 

この作品はさすがに大人っぽく皮肉っぽく描くのかなと思っていたけれど、やはり彼らしく素直な作品であった。

最後の大円団に至っては、ここまで全員にとって好都合な落としどころに収まることを、笑かすでもなく、特にエクスキューズもなくストレートに描くというのは、今の時代逆にレアかつ貴重。もはやてらいのない善良さはマーク・ウェブの個性なのかも、と思った。

激しい映画疲れの身には、ほっこり優しくて嫌いじゃなかった。時々、いじわるばあさんが顔を出し、え?なんで?ってなったが(笑)。

 

キャラクターを魅力的に描くというのも、この監督の持ち味だと思う。

とりたてて魅力を感じなかった俳優が、ぐっと魅力的に見えることが多い気がする。

この作品ではピアーズ・ブロスナンが初めて素敵に見えたし、主人公トーマスの母親役のシンシア・ニクソンも、愛人役のケイト・ベッキンセールも、それぞれいいなあと思った。きっと作り手が人間の温かさや美しさを信じ、人間を優しく見ているからだろうなと思う。

そしてジェフ・ブリッジズは安定の味であった。ちょっとデヴィッド・リンチみたいな風貌で、チャーミングだった。

 

 

年齢を重ねて社会的な成功を収め、社交もそつなくこなして優雅に暮らしているニューヨーカー。

あるいは表現者として成功を収め、いつまでも自由で、若者のメンターになりうる格好いい不良おやじ。

一見そのように見えても、一皮剥けば普通にさびしかったり、勇気がなかったり、後悔を抱えていたり。その人なりの辛さを抱えながら、その人なりの努力をして日々を生きている。

複雑そうに見えても、心の中心には愛したい、愛されたいというシンプルな思いがある。

 

父の不倫を通じて身近な大人たちの素顔に触れることで、少年は初めて大人を一人の人間として見る視点を持つ。

裏切られた、自分の世界を破綻させた、と怒り狂うのは子供。

(この作品においては、トーマスの恋人ミミはそういう存在。)

最後、トーマスは彼らの肩を抱き、黙って寄り添う。

 

大人になるって、どういうこと?

人間は不完全な生き物だし、みんなそれぞれ大変なんだな、という温かい目を持つことと、自分の足でしっかり立って周囲のことで揺るがない自分の領域を確立することなんだよね、というのが、マーク・ウェブによる、マーク・ウェブらしい回答。

呪いを解く人

 山本太郎の九州地区での街宣が始まった。家事をしながら時々Youtubeの動画をイヤフォンで聞く。あんだけおんなじ内容を熱を持って何十回も話し続けることができるってすごいなあと思う。

 

聞いている側としては、話の内容自体は聞き飽き気味ではある。しかし、こういう見方は本来的ではないのかもしれないけれど、見に来ている人からの質問がまあ面白いのだ。

 

日雇い労働者、介護職、農業関係者、教師、難病の家族を持つ人、がん当事者、貧困のシングルマザー、ノンポリの学生、不登校児の母、お店をたたむ自営業者、就活中の大学生など。これに住んでいる地域の事情が重なってくる。

 

皆、必死で自分の置かれている状況を話す。怒っている人もいるし、泣いてしまう人もたびたびいる。

ものすごく話が長い人もいるし、独りよがりな人もいるし、思慮深く賢い人もいる。

そういう不格好さを含めた生々しく多様なリアリティーがとっても興味深い。

 

市井の人たちの生身の「編集されていない声」を映像で見る事は、実はあんまりないと思う。

テレビの新橋SL広場のサラリーマンの声とかって、番組が言いたい文脈に合わせた内容を話している人を都合良くピックアップしているので偏っているのが前提。

 

普段見る映像では、喋る事を生業としていたり、専門職だったり、とにかく自分が喋りたい人だったりが喋っているものを見るわけで、町ですれ違う、特に表現とかしたい訳ではない普通の人の幅広い考えに触れることは実はごく少ない。

 

けれど見ていて、そんな一人ひとりの語りにははっとするような魅力と説得力がある。

ほとんどの人の人生がほんとうに大変だし、そんな中でも文句も言わず淡々と皆できることをしていて、ほんとうに偉いと思う。

そういう世界があるのか、世の中にはそんな病気があるのか、と勉強にもなるし、びっくりするような話も多いし、あんまり気の毒でもらい泣きしてしまうこともある。

 

毎回、消費税を中心とした経済・憲法・福祉・暴政などの話が中心。支持を訴え、彼らの政策や基本的な考えを伝えることが主目的ではあるのだろうけれど、人々と太郎さんのやりとりの値打ちは、私は「呪いを解く」ことにあると感じている。

 

日本の歴史やメディアコントロールなどによって知らず知らずのうちに刷り込まれたさまざまな思想からの解毒。

 

「税金は年貢じゃないですよ」

「どうして政治家が嘘をつくか?それは彼らにとって都合の良い世の中を作るためです」

「政治家はお殿様じゃないですよ。期間限定の雇われ店長に過ぎません。雇っているのはみなさんお一人お一人です。なのにどうしてあんなに偉そうなんでしょうね」

「シングルマザーの2人に1人が貧困。シングルマザーの半分もの人が努力不足だから貧しくなったなんてことがありえますか?」

「今の貯蓄ゼロが6割を超える若い世代が年を取って、どれだけの人が一発逆転成功してお金持ちになれるか?1%にも満たないでしょう。99%はさして変わらない状態のまま推移することになる」

「国の借金はあなたの借金ではない。誰かの収入です」

 

こうして書いてみると当たり前すぎることなのだけど、今、これを正面切って言う人がいないということなんだと思う。

 

誰かの何かを糾弾する面も確かにあるが、それよりは一人ひとりの思い込みを外すことを太郎さんは重要に考えているんだと思う。

マスメディアの情報には往々にして「隠された意図」があって、それを込みで情報を受け取る必要があり、時に騙されたり翻弄されたりもする。

 

だから、一人ひとりが知識をつけよ、疑え、自分の頭で考えよ、もっと賢くなるしかない、という思いに基づいたこれはゲリラ戦なのだ。

 

そして、聞かれたことを逸らしたり誤摩化したりしないというやりとりそのものの値打ちもあると思う。

 

言いたい事だけ一方的に言い散らかしたり、

だんまりを決め込んだり逃げたり、

あさってのことばかりぺらぺらと相手が諦めるまで話し続けたり、

威嚇してごまかしたり、

「誤解を与えたんなら謝ります」みたいに、あたかも誤解して受け取った側が悪いみたいな不遜な謝罪をしたらもうなかったことだみたいになったり、

賢そうに早口でたたみかければ切り抜けられていると思っているみたい。

 

こういう、本当に人としてひどいやりとりが横行していて、聞かれたことに十分に答えるというやりとり自体が政治の分野ではもはや珍しいことみたいになっている。

十全ではなくとも、相当勉強しているのはよく分かるし、彼は逸らさないから、もやもやいらいらすることがない。

 

いろんなドキュメンタリー映像を見ているけれど、山本太郎街宣のエンタメ性の高さはなかなかのもんです。

10/1の新宿は、とりわけ興味深いスピーカーが多かったです。

https://www.youtube.com/watch?v=zoX9ZNVDmyI

 

畑と映画の日々

昨夜は寒くて寒くて、エアコンで暖房を入れた。

まだ扇風機もしまっていない。先週までは暑いくらいだったのに。

日本は亜熱帯化していて、春と秋がなくなっていくのだと実家の母が電話で言っていた。

 

昨日から高校、今日から中学校の秋休みが明けて、平常運転。また5時起きのお弁当作り生活が始まった。

今朝、お弁当に入れようと思っていた残り物の豚肉がちょっと古かったので捨てて、困った時のウインナー炒め。タマネギとソテーして少なめのケチャップで和えただけ。

作り置きのさつまいもの甘煮と、大根と切り昆布の甘酢を入れて、お味噌汁と梅干しご飯。毎日こんな簡単なものばかり作っている。

 

昨日は畑。仕事なのに毎回異様に癒される。

野菜は同じように世話しても一つひとつ思いがけない成長の仕方をするし、畑にはいろんな虫もいるし、人間と違って何の駆け引きもなく、すくすくぴかぴかと育っていく。

なんて可愛いのじゃろう、と胸がきゅんとする。

昨日はホッカイロ持参で行ったが使わないで済んだけど、これからどんどん寒くなり作業も厳しくなっていくのだろうな。

 

今日から週末までは仕事が入っていないので、お天気でないのが残念だけど、衣替えをしたり扇風機をしまったり、冬支度をしよう。

台風で荒れた庭の手入れも今日やろう。

 

それから、昨日持ち帰ったたーくさんの大根の間引き菜をさっと茹でておくのと秋なすでなんか作るのと。あ、ひき肉の炒めたのがあるので、麻婆なすにしようかな。でも昨日は酢豚だったから、なすとひき肉のグラタンの方がいいか。

 

さっきだんなさんから誘われて、土曜日はダニー・ボイルの「Yesterday」を見に行くことに。ダニー・ボイルは好きなのでもちろんいいんだけれど、ああ、「宮本から君へ」がいつまでも見に行けないよう。劇場が遠いんだよう。

 

日曜日はずっと前にチケットを取ってもらっていた、ベルギー人監督が撮った山本太郎のドキュメンタリー「Beyound the waves」の自主上映会へ行く予定。

 

動画配信を含めると、今週も気がつけば週に5本とか映画を見ている。忙しいのか暇なのか。

「惡の華」

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2019年/井口昇監督/127分/公開:2019年9月27日〜

 

公開早々、スピーディーに打ち切りが決定したこの作品、だんなさんに誘われてレイトショーで見て来た。特に見るつもりではなかったんだけれど。

 

今の邦画、中・高校生を主人公に据えた若い人向けの作品がほんとうに多い。いい年のおばさんとしては気恥ずかしくって予告編でさえちょっと見てられないな〜と思う作品が多いなか、この作品は良い意味で予想を裏切ってくれた。

 

とはいえ、最初の30分はしんどかったなあ。何が悲しゅうて中学生のSMプレイを延々と見てるんじゃろう・・・と呆然としてしまったのだけど、春日と仲村が教室をぐっちゃぐちゃに破壊する辺りからだんだんと作品の意図がクリアーになってきて、ドライブがかかってきた感じ。

 

最初の15分でため息なら、大抵面白くなかったという感想に終わることが多いのだけど、尻上がりに良くなっていったという意味でも意外性のある作品だったなあ。

 

これは思春期を命がけで体当たりするみたいにして駆け抜けていく子供たちの物語だ。

片親だとか貧困だとか、逆にスポイルされてとか、愛情が足りないとか、大人が訳知り顔で簡単に分かったつもりになることなんておこがましいことなのだ。

ひとりの人間が大人になっていくということは、背中合わせに命にかかわるような危険をはらんでいる。もしかすると死んでしまうくらいのことがふっとエアポケットに入ったみたいにして起こりうる。

 

思春期とはかくも狂おしいもの。そのコアをつかんで見せたい、という意欲を感じさせる作品だった。

古い作品だけどあの素晴らしい「17歳のカルテ」とちょっと通底するものを持っている。

河合隼雄先生が生きていたら、この映画を分析してもらいたかったなあ。

 

もちろん自分もかつてここをくぐり抜けて来た。普段は意識の上でもすっかり忘れたみたいになっている。けれど体の奥底が憶えている狂気じみた記憶が、見ているとざわざわした寒気みたいにして蘇ってくる感覚がある。

 

思春期の子供にとって、世界はあまりに狭く、経験値やサンプル数は圧倒的に不足している。だからこそ、今の40歳を過ぎた大人の視点から見ると堂々巡りで過剰な自意識が滑稽で、つたない。しかし、そこには文字通り実存をかけた切実さがある。

今、うちの下の子は、多分これに似た嵐の中を生きている。

それを茶化して雑に笑い飛ばすことは、リスクでしかないんだと思う。

 

思春期の子供たちのはまり込んでいる枠組みを既に超えた大人にとっては、そもそも泥沼に入り込むことなく比較的スマートに世界と上手に折り合いをつけながら大人になったような人にとっては、この作品はもう全くぴんとこないんだと思う。

実際、シティボーイのうちのだんなさんは困り顔だった(笑)。

私は恥に恥を重ねたような十代の日々だったので、なんかいろいろ身に沁みた。

最後の海のシーン、ずぶ濡れになって転がり回り、殴り殴られ、それで憑き物が落ちたみたいに別れていく。唯一無二というくらいにお互いを必要としている強固な結びつき。恋愛でも友情でもなく、名前のつけようがない奇妙で親密な関係性。

あれくらいにむき出しでなければ触れられる気がしないほどに切羽詰まっていたのだ。実感というものを切望していたこ。その感覚を本当に久しぶりに思い出した。

 

仲村さんが焼身自殺しようとする祭りのシーンが心に残った。

どうにもしまらない感じだった父親が、一転、身を呈して仲村さんにしがみつく。

仲村さんは離せ離せとひたすら絶叫する。

いくら親に愛があっても、いくら子供を配慮しても、思春期の子供は時にはここまで行ってしまう。

けれど、どんなに格好悪かろうが身近な人の命がけの愛情だけが子供を「こちら側」に引き止める力を持つ。

 

というか、究極、親にはそれくらいのことしかできないのだ、ということを思った。

親になったからこそ感じる部分だと思う。

 

 

何かに取り憑かれたような極端で生きづらい状態で、行くところまで行ったら、ある日憑き物が落ちたみたいにあっさりと過去のことになるのが思春期。

過ぎてみれば拍子抜けするほどあっけないが、渦中にいる時は大嵐。

もう本当に本人も周囲もぶざまなことに成り下がってしまうんだけど、避けては通れぬうんざりするような道だ。

 

クラスのマドンナ、佐伯さんの描き方、結構好きだったな。

多かれ少なかれ、誰もが危うい中を自分なりにサバイブしていく。

いつまでもナイーブではいられない。大人になることには残念な側面も避けがたくある。汚れてずるくもなるが、優しくたくましくなっていく。

 

良くも悪くも、皆そうして大人になるしかないのだし、それはそんなに悪いものでもないよ、というほの明るい後味が残るラストが秀逸だった。

 

「荒野にて」

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2017年イギリス/原題:Lean on Pete/アンドリュー・ヘイ監督/122分

 

アメリカの広大な田舎を舞台に、みなしごとなった少年と一頭の馬との逃避行を描いた作品。

 

作品の冒頭から、さりげなくも実に端的に主人公チャーリーを取り巻く世界のありようが描かれていて、演出の巧みさを感じる。

「さざなみ」でも思ったけれど、アンドリュー・ヘイは、人物のちょっとした仕草から、その人となりを理解させる術に優れていて、人間をよく観察している人なのだろうと思わされる。身近にいたらちょっと怖い(笑)

 

是枝裕和監督の「誰も知らない」とも通底するテーマを持った作品である。

だめな大人と貧困と冷酷な社会システムによって、子供が追い込まれていくさまがつぶさに描かれる。

 

下品で浅ましい大人たちや、不潔で貧しい環境のなかにあって、チャーリーの素朴でずるさのない清潔なたたずまいは、痛々しいほどのギャップを感じさせる。

チャーリーは生まれ育った環境を当たり前のものとして受け止め、身近な大人のだらしのない愛情ときわめていい加減な庇護を細い命綱のようににぎりしめている。

彼はとてもあやういところに立たされている。

 

それが女にだらしない父親が簡単に殺されてしまって、一気に何の保護もない文字通りの荒野にチャーリーはひとりぼっちで放り出されることになる。

さいごの命綱である幼い頃に別れた優しかった伯母の元に向かうべくひとり旅に出る。

彼が世話をしていた、老いたために売られて殺される予定だった馬と共に。

 

社会のセーフティネットからこぼれ落ちた人がどのようにして生き延びていくのか、この作品を見ているとよく分かる。

こぼれ落ちた人間の目から見た社会の様相。そこでの偶然の出会いや、小さな親切や、地に足の着かない奇妙に実感に欠けた日常。

彼には限られた選択肢しか与えられていない。そして、彼自身には何の責任もない。まだ年端も行かぬ、汚れのない心を持ったもの静かで優しい少年なのだ。

 

自分の力で幾ばくかの金を稼ぎ、それを狂った大人に奪われ、暴力をもって力づくで奪い返す。

彼は男を殴り倒した自分の震える汚れた手をじっと見つめる。それが大人になるということなのか?

 

最後の最後まで、彼がどうなるかは分からない。だって彼自身は選ぶ事ができないのだから。観客も、チャーリーと同様、理不尽で寂しい不安を強く感じながら、祈るように伯母を見る。

伯母さんが素晴らしい人で、本当に良かったと思う。

全ての子供は守られなければいけないんだという思いを強くする結末だった。

 

映画のラスト、冒頭と同じようにチャーリーがランニングをする。

何の台詞もなく、ただ近所を規則正しいリズムで走り抜けていく後ろ姿が、あまりに多くのことを語っていた。

彼が今では温かなシェルターにひとまず落ち着いたこと。

 

しかし、あの寄る辺ない日々の記憶は、きっと消えることはないのだ。

 

 

この作品で強い印象を残すのは、やはり厳しく美しい荒野の自然の中を少年が行くさまだろう。

この作品はイギリス人の監督がアメリカの田舎を撮っているわけだけど、外国人監督が異国を撮ると、自国出身の監督にはない新鮮でビビッドな感覚が生まれるのが好きだ。

その国に生まれ育った人が自国を描く時には、近いからこそ細やかな機微を描くことが出来る一方、あまりに当たり前に思って見えなくなっている美しさもあると思うのだ。

そうした思いがけない魅力が、外国人のフラットな感覚によって可視化される感覚がこの作品にもある。

 

アメリカの実は大部分である広大で乾いた土地。

ヴィム・ヴェンダースの「パリ・テキサス」を思い出すような、厳しくどこまでも広々と自由で孤独な荒野。

人間の命はひどくちっぽけで、同時に圧倒的な平等性がある。

厳しい怖さと甘やかな美しさが同居したとても美しい荒野だった。

 

台風一過

台風一過。

関西への帰省は交通機関の運休により、だめになった。だんなさんも愛媛の離島で撮影の予定だったけれど、キャンセル。

 

台風前日、心配性のだんなさんは山のような買出しをして、車のガソリンを満タンにして、暗くなってから帰って来た。

水、炭酸水、米、カップラーメン、カセットガスボンベ、お菓子、携帯の充電器などなどが部屋の隅に積み上げられた。

私はといえば、買い物にしばらく出ないで良いように生鮮食品を張り切って買い溜めしていて、それは停電も断水も想定してない甘い読みだったのだなあと反省。

冷蔵庫が止まっちゃったら、全部腐ってしまうものばっかり一所懸命買っていた。

 

結局、大量の食材消費と、停電してもあっためて食べられるものをと思って、ベジタブルブロスとビーフシチューとコールスローを大量に作った。

 

我が家には雨戸というものがないから1Fの大きなの窓におとといのうちに段ボールを目貼りをしたため、昨日は光の入らない暗い室内で一日報道を見聞きしながら家族4人、あてどなく過ごすことになった。

 

市内に相模川が流れているので、報道ではしょっちゅう茅ヶ崎の映像が出て来た。我が家は川から近くないので浸水の心配はなかったものの、友だちで川の真裏に住んでいるひと、相模湾のすぐ近くに住んでいるひとがいて、大丈夫かと連絡取りつつ。

 

何度も全員の携帯が特別警報だの避難指示だので大きな音が一斉にわんわんと鳴って、そのたびにびくっとさせられた。

近くの小学校の体育館が避難場所だと聞いて、絶対に行きたくないと思った。

あんな蛍光灯に明るく照らされた寒々しい板の間で、仕切りもなくブルーシートの上に直で座って大勢でひしめき合って過ごすなんて。災害報道のたびによく見るあの雑魚寝の風景は、さぞストレスフルなことだろうと我が身に迫ってみて改めて思う。

 

暗い部屋の中で家屋が浸水して海みたいになっている映像を見ながらカップラーメンを食べていると、「何だかポニョを思い出すね」とおっちん。

崖の上のポニョ」では、家々は台風で水に浸かってしまったけれど、澄んだ水の中を魚がすいすい泳いでいて、皆船に乗って大漁旗を掲げて、やいやいと陽気な祭りのようだった。

 

「ポニョ」の洪水のシーンを見ていると、こんな世の中一度全部海の下に沈んでしまえ、全部洗い流されてリセットしてしまえ、という宮崎さんのある種の破壊的衝動がひしひしと感じられる。いっそせいせいするよ、と言いたげな。その感覚は正直言ってよく分かる。

けれど、現実はひどい泥水でごみやらなんやらがぷかぷかと浮いていて、人々は泥だらけで助けを求めていて、途方に暮れるような有様だ。

千葉ではどしゃぶりの中、竜巻で家がぐちゃぐちゃになっている映像も見て、本当に気の毒だった。

 

台風の進路のちょっとしたさじ加減で、自分たちがこうなっていたかもしれないのだ。現実はどんなことでも起こりうる。いざそうなった時にはどんなことがあっても自分たちでなんとかひとつひとつ片付けていくしかない。

生活は一日も途切れることなく、じりじりと続いていく。

 

 

一夜明けて結局、我が家は停電も断水もなかったし、庭の木も15号の時の方がたくさん折れて大変だったくらいだった。朝、両隣の家の方々と無事を喜び合う。

 

窓に目貼りした段ボールを撤去し、ウッドデッキのタープを元に戻したら、眩しい光と清涼な風が家の中に入り込んで来た。

爽やかな風に吹かれながら、洗濯物を干したら、やっと日常が戻って来たという感覚になった。

 

 

相模川はぎりぎり氾濫しなかった。城山ダムの緊急放流をぎりぎりまで粘ったことも効を奏したのかもしれない。事前の情報では、台風直撃の前の17時に放流と報道があって、これは大変なことだと思っていたけれど。

ダムの現場では前日から徹夜で緊急放流をしないで済むように作業が続けられていたと後で報道で読んだ。

 

電車をはじめとした首都圏機能も今朝から軒並み回復していてどんどん通常運転になっており、あまりの早さに驚く。

自衛隊や消防の救助も進んでおり、プロフェッショナルの人々の素晴らしい仕事ぶりにはほんとうに頭が下がる。名も無いアンサングヒーローたち。

 

それに対して、首相や関係閣僚からほとんど何のメッセージもなく、陣頭指揮を執るそぶりも見せなかったな。東日本大震災の時は、作業服の枝野さん出ずっぱりで、いつ寝てるのかと思うほどだったけれど。

10/12の首相動静によると、一日公邸にいたとあった。

 

彼らのリーダーシップにはそもそも期待をしていないし(むしろ変にしゃしゃり出て来たほうが害がありそう)、彼らなくとも全国の公共・民間のプロフェッショナルたちがこれほど機能しているということで、それはそれで良いと思うほどだが、

少なくとも「災害時のために権力を集中する必要がある」という理由で憲法の緊急事態条項を変える必要は全くないということは証明されたよな、とは思う。

災害のために全権掌握する必要があるなんて都合の良い口実に過ぎないのだとこれほど分かりやすく身をもって示してるものもないよなあ〜と思うくらいであった。

 

何かを言うと唇寒しな世の中だけれど、これだけ災害の多い国にあって、普通に「人の命を大事に思い、困っている人に手を差し伸べて出来るだけのことをしようと思っている」人が政治家でないというのは、ほんとうに危険なことなんじゃないの?とは声を大にして言いたい。

 

 

「しっかりとー」とか「迅速かつ適切」とか口では何とでも言う。

実際に何をしたのかだけを見ればみれば分かること。