続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

「おとなの恋は、まわり道」

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2018年アメリカ/原題:Destination Wedding/87分

 

青山シアターにて。もう疲れちゃってなーんも考えたくない夜、飲みつつ視聴。

新作がヒットしているキアヌ・リーヴスの最近をそういえば永らく見てないなーと思い。「ジョン・ウィック」は多分見なさそうだし。

 

だんなさんの長年の友人が住んでいるカリフォルニア北部、サン・ルイスオビスポ、そして何度もみやげにもらった「Apple Farm」のジャムのロゴと同じ看板のホテルが舞台、偶然を面白く思う。

そうかー、SLOってこんなかわいい町なのだな。

 

映画自体は、もうほんとに軽ーく見る作品。

取っ組み合いみたいな草っ原でのセックスシーンは脳みそと本能が引き裂かれた中年男女の支離滅裂なさかりようにわっはっはと笑えた。

もちろんいい大人なんだから、本当に欲しいのはそういうもんじゃないんだけど、でも、そう言う部分も含めた相性が如何ともしがたくぴったりなんだよね、という話。

もちろん「ハリー・メット・サリー」の方がだいぶ良くできているけれど。

 

それにしても、やはりこのコンビネーションとなると、役柄を離れた俳優それぞれの人生の紆余曲折をどーしても重ねて見てしまう。この作品ってそれありきってところもあるよなあ〜。

 

いろいろあって、それでもたくましく自分をさらけ出して生きていく。

何はともあれ死なずに、笑顔で、こういうさりげない作品でこっけいなやりとりを見せてくれる。

一緒に年を重ねてきた世代として、ええね、と思います。

殊にキアヌ・リーヴスの年の取り方は素敵だな。

 

 

 

 

 

「ビールストリートの恋人たち」

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2018年アメリカ作品/原題:If Beale Street Could Talk/バリー・ジェンキンス監督/119分

 

もうしばらく前の備忘録。厚木の二番館へだんなさんと一緒に見に行った。

 

「ムーンライト」の時も思ったことだけれど、この作品も始まって10秒で、「もうこれウォン・カーウァイそのものじゃん・・・」と思った。

私の大好きなタイプのキザさと、独特のたっぷりとした間。

いささか陶酔気味ですらある美意識と、くらくらするほど耽美的な音楽と映像とのコラボレーション。

冒頭からもう、見惚れるほどにロマンチック。

 

カーウァイ感って、クリストファー・ドイルの撮影からくるものが8割と思い込んでいた。でも、むしろ多用されるストップモーションやスローモーション、レンズを覗き込むような真正面からのクローズアップといった編集技法からそれを強く感じるのだなと再認識した。

 

しかしただテクニックを模倣しているのではなくって、やっぱりカーウァイの一番輝いていた頃の映画の、「今しかない」という感覚、過去も未来もなく、目の前の一瞬一瞬をどこまでも拡大して、どこまでも味わうんだという、ものすごい刹那性が美意識として共通しているということなんだと思う。

 

私にとってはその感覚は若い頃にはしびれる程に響いたゆえ、カーウァイの作品に熱中したのだろうが、この作品を見て今も尚、やはり自分はその気障さと刹那性を愛するのだなと思った。

もう、浴びるように酔っぱらうように見ていた。

 

恋としか言いようのない、そのかけがえのない感覚。

 

だから、テーマはある意味既視感のあるものだったり、話運びにいささか難があったり、細かいつっこみ所はあったりするのだけど、私はもうひたすらどこまでもこのムードだけでオッケー、という感じであった。

(「ムーンライト」とどっちが好きかと言われたら、やはりムーンライトに軍配があがるけれど。)

 

しかし、若い恋人が初めてベッドインするシーンで、おもむろにコルトレーンが流れるというあまりのドストレートな演出、白いブリーフ一丁で迫り来るファニーには、思わず「ぶっ」と吹き出してしまった。

昔の山田詠美の小説のようで、これには照れた。

この照れを耐えれる感覚は多くの日本人にはないだろうなあ〜。

 

テーマとしてきちんと語られ表現されていることよりもむしろ、当然のごとく描かれているこうしたラブシーンの感覚とか、家族同士の喧嘩シーンの感情過多なすさまじいストレートさとか、無意識的に滲み出ている生身の彼らの感性が面白く感じられた。

いろいろ違っていていいなあ、いやはや素晴らしいね、と思った次第。

大掃除

昨日、おとといと元職場に行き、大掃除部隊の一員として日がな埃まみれで働いていた。

昨日は朝から大雨で中学校が休校になったので、おっちんも連れて行った。

 

ひとしきり働いたら皆でご飯やおやつを囲む。

筍と若布の炊いたん。

しらたきの鱈子和え。

鮭やきゅうりのQちゃんの入ったおにぎり。

一晩寝かせた具沢山の豚汁。

いなり寿司。

厚焼き卵。

茄子の揚げ浸し。

パンから焼いたサンドイッチ(卵とハムチーズ)。

季節の野菜の甘酢漬け。

フルーツトマト。

アメリカンチェリー。

山盛りのお菓子たち。

 

頭をからっぽにして働いて、一仕事の後に食べるご飯のなんておいしいこと。

 

互いの声すら聴こえぬ程にわいわいとひたすらかしましく、しかし見事にてきぱきしているおばちゃん軍団の隅っこで、にこにこお茶をすすりながら話を聞いているのが楽しかった。

 

私の心の原風景は、母方の祖母の大きな農家で、年越しにわいわいと女たちが集いながら餅をつき、すごい量のおせちとかのご馳走をこしらえていく祭りみたいな場所。

それが久々に目の前に再現したのがしみじみと嬉しかった。

 

私のばあちゃんのような器を、その場を作った友だちは持っている。私にはないけれど、小さな働き手として隅っこに混ぜてもらえたらそれで満足。

 

おっちんもさぞ楽しかろうと横顔を見たら、そうでもない様子。

彼女は三茶生まれの都会っ子のだんなさんの血も半分引いているから。

それにひとりちびっこで、大人たちにぐいぐいいろんなちょっとデリカシーに欠けるようなことを言われたり、食べ物をすすめられたりするのにも気を遣うんだろう。

ま、そうだよね。

 

このところ、考えることから離れがちになっている。

こうしてひたすら手を動かし体を動かす、なんの留保もないシンプルなことをしていきたいという気持ちが次第に強くなっている。

パソコンに向かう仕事はもうあんまりやりたくないなあ。

好きだったインタビュー仕事にももうあまり魅力を感じなくなって久しい。

業界の地盤沈下が進んでいて、仕事の数自体は多いけれど、納得性のある仕事はいよいよ目減りしている感。

人生残り少ないので、気の進まないことをやっている暇はないかなと思っている今日この頃。

 

 

夏よ来い

朝は薄曇りだったけれど、だんだんと明るい陽気に。庭で鳥がたくさん可愛い声で鳴いている。なーんて可愛い声なんだろ。

また新しい一週間が始まった。今日はこれからおでかけ。

 

今は春のど真ん中だけれど、日に日に夏に近づいていっているのを感じる。

毎年春にがたがたっと精神的に来て、ぐーっと落ち込んでしまう気持ち、まだまだ不安や自己否定感に苦しめられているけれど、かっと暑くなるほどに、だんだんと上向いてくるのが常である。

 

春は草木が美しく、暑くも寒くもなく、風に当たっているだけでゆるゆるとほどけていくほど心地良い良い季節だけど、だから私は夏を心待ちにしてしまう。

それでなくとも日本は亜熱帯化していて、春が年々短くなっていっている感があるのだけど。

 

今はまだ、毎晩の酒量が多めで、ワイン代に金がかかって仕方がない。キッチンの隅に積み上がっていく安酒の空き瓶が恥ずかしい。

だんなさんは下戸なので、犯人は私ひとりって全員分かっている。

 

しかし、電話が苦手な私にとってはメールやラインでやりとりできることはありがたいんだけど、この時期はちょっと辛い時も。

返事をくれなかったり、聞いたことには答えてくれず、先方の都合だけだったりといったことが、妙〜にこたえる。

メールは目の前に相手がいないので、その場でレスポンスする先がないから、良くも悪くも一旦ぐっと飲み込むことになる。

 

それでその時は「ふーん」と思っているだけなんだけれど、機械化された文字を見ながら、あれこれ思いを巡らせるうちに、自分の思考のバイアスが徐々にかかってくるのである。

 

昨日会った人との事前のやりとりも、自分はしくしくと勝手に心痛めていたんだけれど、案ずるより生むが易しというか、はなから「そんなん気にしなけりゃ良かったじゃん」という取り越し苦労っぷりであった。

 

しかし、こうして会って話してクリアーにならない相手には、未だしくしく傷つく気持ちが収まらなかったりして、だみだこりゃ、まだまだだ、と思う。

 

自分の感じ方が証明された真実のようについ感じられてしまうんだけれど、

今は自分は暗い方に偏ってるんだ、ちょっと感じ方が変になっているんだ。

そう自覚をする、自分の思考にみずから光を当てることが第一歩。

 

 

基本は自分もだめだめだし、他人にも期待は禁物と思っている。

性格が変わっているので、自分が多分相手はそう思ってるんだろうと思ったことは確認するとたいがい外れているので。

だから、日頃はスルーも噛み合わないもドタキャンも、ま、そんなもんだろうと思ってほぼ気にしないほうだ。

まずもって許す以上に自分が許されているので・・・。

 

殊に自分がやりたいことにまっすぐ向いていて、「さあ、次は何しよっかな!」という明るい心境の時はダイレクトに嫌なことを言われたりされたりしてでさえ、バリアーで跳ね返せてしまうから、一番強い。負け惜しみでなく本当に気にならない。そして元から忘れっぽいので、しばらくしたらすかっと忘れられる。

だから私の場合はそこにもっていけるよう、コンディションを整えていけば一番幸福感あるんだろうなと思っている。

ちょっと忙しいくらい、でもただ追われて忙しいというのとは微妙に違うのだなあ。

 

全ての調和や幸福は、ある一定の状態や達成を指すのではなくって、やじろべえみたいにふらふらと危うく、止まること無い微妙なバランスの上にあるというイメージ。

自分なりに学んで対策をたてることはできるものの、奇跡みたいに安定しているというたまの瞬間はとどめておけず、基本はただただ感謝するしかないのだなあ。

 

 

最後の総会

昨日は、友人の経営していたNPO組織の最後の総会に夫婦で出席。

理事長をつとめるだんなさんがステージ4のがんで、待ったなしで、次の月にはデイサービス閉鎖を決めた。

最後の方は収益は上がっていたもの、国の制度や人間関係、雇用問題など元々多くの問題を抱えていて、心身ともにへとへとのストレスフルな状況の中踏ん張っていたこともあって、即決だった。

 

個人的には、辞めれて良かったなと思う。

お客さんにめちゃめちゃ求められているから、こんな問答無用な状況でもなければたためなかった。

今後はもうちょっと人生の時間をゆったりと、そして自分のやりたいことにまっすぐに向かえるといいなと思う。

 

友だちのだんなさんは半月前、病院にお見舞いに行った時よりも随分腫れがひいて、ごはんも小さくハサミで切りながら食べれていて良かった。

普段からゆるキャラだけれど、見舞い時はそれこそゆるキャラそのものだったもんなあ。がんばれ、がんばれ、と思う。

 

集った人たちの顔ぶれを見ていると、彼ら夫婦の人徳がようく分かる。

人数は少ないんだけれど、本当にいい味の、そして(自分を除いて)上滑りな人が一人もいない。自分が仕事でよく関わっているような、小洒落て表面ばかり慇懃だけれど心を使うことを節約していたり、薄ら冷たかったり、はったりっぽいタイプの人は一人もいない。

いつも社会の弱者に長年がっぷりよっつで向き合ってきた人たちのすごみを思う。

何があっても動じない人たちの懐の深さと優しさに、いつも私は圧倒されてしまう。

なんでこの場に自分が混ぜてもらえるのかな、どうして彼女は友だちでいてくれるんだろうな、という感覚がついに抜けないまま。

 

今後を話し合うにあたって、何もかもひとまずおしまい、って辞めることを決めた当初彼女は言っていたんだけれど、撒いた種は着実に育っていたね、ということを実感する時間になった。

そこにあるのは、悲しみや苦悩じゃなくて、希望やアイデアや笑いだった。

大体あーたたち、自分たちを過小評価しすぎよ。

こんだけしてくれる人たちのこと、みんなが大事に思わないわけないでしょう。

たくさんの人に泣かれて、惜しまれてびっくりしつつも嬉しそうだった。

 

そしてまだ雑然とした事務所の中に積まれた山のようなお菓子やら何やら。みんなの何かしたいという気持ちの集積。

動かない病後の体でもできる仕事の申し出の数々や、生活苦しければ子どもの大学費用まで寄付するだの、養女にしてもよいだのという申し出さえあったという。愛されてるよなあ。

 

組織に関しても、法人格があって、これまで地域で積み上げてきた信用と実績があって、高いスキルを持った専門家がいるということは伊達ではないのだなあと思う。

何よりも「一肌脱ぐよ」と言ってくれる人たちがこれだけいる。

私もできることは協力するつもりでいたけれど、でも多分出番ないなーと思うくらいに、大丈夫だろうって感じた。

本物のセーフティーネットって、お金ではけして得ることはできない。

 

しかし逆に、どうして彼らはここまで追いつめられたんだろうと思わされた。

これだけの人たちが、どうして「自分は取るに足らないちっぽけで役立たずの者」と意気消沈しながら、社会の片隅で、掻いても掻いてもきりのない雪かきに小さなスコップで立ち向かうみたいな気持ちで仕事しないといけなかったのか。

 

彼女の相棒のスタッフIちゃんが、「せちがらいよね〜」と時々口ぐせのように明るく言っていたけれど、すごく実感がこもっていたな。

「今の時代老いるということは生易しいことではない、厳しいものだって周囲の人たちにも常々伝えています」と言っていた他のスタッフさんもいた。

 

 

いつもありがとうと言われるけれど、感謝しなければならないのはこちらの方といつも思っている。

帰り道だんなさんが「彼らは全然だいじょぶでしょう〜。危ういのは俺たちの方だよ」と言っていた。

ほんとにそう思う。

そんな中で彼らの存在は本当に何はなくとも心強い。

 

しっかし、入院中のモルヒネ幻覚話には、腹を抱えて笑ったなー。

彼らの新たなステージに心からエール。

 

 

スマホゲームの怖さって

何かの拍子に見かけた「すごく面白いスマホゲームアプリベスト◯◯」記事で見かけたゲームを、何の気なしに試しにダウンロードしてしまう。

半日が一瞬のうちに過ぎ去り、そら恐ろしくなる。

 

さっき、慌てて削除した。ひえー、人生棒に振るところやった。あぶないあぶない。

自分は依存的な傾向があるので、抑制が効かないのだから、近寄らないしかないのだ。

 

そして、スマホがなぜかくも依存・中毒的かということを分析して論じている専門家の話を聞いた時にすごく納得したのは、「ランダムな報酬系」に対して人は強い依存を示す、という説だった。

 

カジノで一番中毒性が高いのは「スロット」らしい。

スロットマシーンの当たり外れには規則性がない。しかしどこかのランダムなタイミングで「ごほうび」がもらえる。この感覚。

 

スマホSNSやブログが代表的だけれど、どこか分からないランダムなタイミングで「いいね」やらリツイートやらコメントやらがつく。あるいは訪問者数の増減。

その動きというか、報酬感に人はアディクトしてしまうのらしい。

しじゅう気になる、ということになる。

 

その観点で言うと、さっき削除したスマホゲームは、そのメカニズムや心理は百も承知の上で設計してあるなと感じた。

ユーザーがわなわなしてつい課金に走ってしまうことを目的としているので、そこんところをばっちり押さえているのだ。

「ちょっとした息抜き、気分転換に」

なんてけしてさせない、こわーい泥沼的システムなのであった。

 

 

 

 

 

 

母の休日

昨日。

10連休明ける。

ちゃんと起きれるかどきどきしながら目覚ましをセットして寝て、無事5時半前に起床して弁当作り。(と言っても、目覚ましの音で起きるのが嫌いだから、目覚ましが鳴る10分前くらいにはたっと目が覚めてしまう。)

 

優太はいつも通りぎりぎりに飛び出して行った。私が作ったばかりの弁当を置いて・・・!

30分くらい怒りが収まらない。ムキー!

おっちんは今日は遠足でキャンプ場でBBQだから弁当なしだったのだ。早朝の労働が全部無駄になった。

 

しかし、学校始まってやっとこ母ちゃん休みが来たよ、という感じ。

 

ある友人が夫婦げんかの時にだんなさんに言った名言、

「家族が休みの時の家が主婦の戦場なんっすわ!」

なははー、彼女は真面目だからな。

 

以前はみんながソファでだらーとか、たいくつーとか言っている間にひとり家事に追いまくられているという状況を、「何この理不尽」と我慢の末、皆のあまりの気付かなさにドッカーンと爆発ってことを繰り返していたけれど、その友だちの話を聞いてからは

「そうか、主婦は家族とは休みが逆なのだ。どの家も多かれ少なかれそうなのだ」と腑に落ちるというか、半ば諦めた。

 

だから賢い、そしてゆとりのある主婦の友人は、連休と聞くと必ず旅行の計画を立てて、家自体にいなくて済むようにしてしまっている。

賢く計画性があるだけに、半年先とかまで見越して随分前に手際良くいろんなことの手配を済ませてしまう。ぐずな私はいつもすごいなあ〜と感心する。

 

しかしぐずな、そして仕事もマイペースな私はさておき、自分だってフルタイムで働いてるお母さんは腑に落ちる諦める、では済まないだろうな。私ゃいつ休むんだ、という話。

 

 

連休明けを待ちかねたように、昨日は友だちとおでかけ&ヨガの癒しの一日。

以前から気になっていた車で小一時間ほどかかる場所にあるご飯屋さん、辿り着くのにも苦労するくらいの隠れ家感だったが、これが久々のヒットであった。

 

一口食べて、顔を見合わせる。

一品一品はお母さんが日々作るような当たり前の献立なんだけれど、丁寧に納得の行く素材で心を込めて作っている料理のもつパワーがストレートに伝わってくる。

滞りなく、するするーっと身体に染み込んで行くみたいにいただける。

 

特別なこだわりを謳わない。強い旨味で騙さない。おしゃれスパイスをへんに効かせたりしたクセがなく、でも足りなくも薄くもない。

すごく直球、大事な家族のために作ったご飯のお裾分けをいただいたような気持ち。

 

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デザートも、クセなく「普通」に美味しく、スイーツなのにひとつももたれなくて驚いた

 

こういうことなんだよなあ。

日常の中にある「食」は、変にすごくある必要なんてないんだ。

甘えることなく、腐らず、奉仕の心で丁寧に作られたものは、口に入れた瞬間体がふわっと喜ぶんだよなあ。

そして正しい食べ物をいただいた時に作ってくれた人に対して湧き上がる感謝の心って、何の留保もないのだ。そのシンプルさ。

 

また建物も素晴らしかった。

機能的でミニマム、趣味が良いが良すぎない。

すみずみまで清潔で、気持ちの良い風がさーっと吹き抜けていくみたいな開放感のあるスペース。

外は草っぱらで家が密集していたりすることもない。壁もなくて抜け感がある。

店内なあるひとつひとつのものに心が通っているので、ものが多くてもうるさくなく、すっきりとしている。

 

この場所で食べるからこその美味しさというのもかなりあると思う。

外食というのは、料理そのものと店内のスペースの有りようと店のロケーションとの兼ね合いなんだろうな。

 

小さいが、どの要素も自分好みで嬉しいお店だった。

友だちも満足してくれて良かった。「ここ、すごい良い『気』が流れてるね・・・・」と言っていた。

 

 

夕方前に別れて、滑り込みでヨガのクラスにも間に合った。

久々でごりごりになっていた体をゆっくり優しくほぐしていく。

じんわりと体をねじると、緩んで涙がだーと出て、とても気持ちが良い。

汗をかいた後の温泉も極楽であった。

母の休日。

 

そして今日。

朝、優太からLINE。

「乗り遅れた!学校と逆方向の電車に間違えて乗っちゃった」と。

 

昨日は弁当、ああ、今日もまた。

「おつかれさん。死なないから大丈夫」

とクールに返信。