続・みずうみ

映画のことを中心に、小さく平凡な毎日の中で自分が感じた色んなことを、湖のような落ち着いた心持ちで考えていきたいと思います

吉本って

雨は降っていないけれど、蒸し蒸しと湿気っぽい。

今朝は7時半には家族みんなが出払ってしまって、のんびり家事をしつつ、おっちんリクエストのお菓子を焼こうと思う。午後はヨガ。

一日ってあっという間だなあと毎日思う。

 

 

今日も今日とて、メディアは吉本一色だ。

 

口あんぐり。以上。

 

大きな会社の社長とか大金持ちとか社会的地位があるとかと、人間性はまっっっったく関係がないということを、子供たちよ、どうぞよく見ておいてという気持ち。

むしろ「こんな人だからこそこんなに大儲けできたんだね」という例が尽きないこの頃だ。

 

この社長を見て、このところにわかに吉本が現政権と親密になっていたことも腑に落ちる。本当に分かりやすく類友なんだな。

現政権の周りには、こういうちょっと考えられないレベルで人として格好悪い人ばっかり見事に集結している。

 

 

自分は関西出身だから、昔の吉本のムードをなんとなく覚えている。

ダウンタウンが東京に進出して、お笑い学校みたいなのが出来て、お笑いの人がアイドルみたいに人気者になっていって、どんどん「吉本」はメーンストリームになっていったけれど、昔はなんていうか、お笑いってもっといかがわしい猥雑さがあったものだった。

関西に限らず、ビートたけしだって浅草のストリップ小屋から出てきた人だったのだし、テレビによって変質したけれど、お笑いとは本来そういうところに属するものだったのだ。

 

 

ポンコツすぎる吉本の経営陣と、借りて来たみたいな顔色の悪いエリート弁護士を眺めながら、私は故市川準監督の「大阪物語」という素晴らしい映画のことを思い出していた。

 

この作品は大阪のたましいみたいなものを描いたすごい作品だと思っているのだけど、この作品に描かれている大阪の漫才の世界が、本来の吉本の世界観なんだと思う。

 

まともなかたぎの世界では生きていけないはぐれ者がうごめく世界。

彼らは劇場のスポットライトに照らされながら、仄暗い闇の中を生きる。

今のお笑いスターのように持ち上げられるような風潮なんてなく、むしろ芸人は大衆に蔑まれる存在だった。

映画は、それでもその中でしか生きられない芸人たちの姿を生々しく描き、底辺で生きる人間の嫌らしさや強さや弱さにどうしようもなく惹きつけられたものだった。

 

実際、この作品には吉本をはじめとした大阪の芸人がたくさん出演している。ミヤコ蝶々とか、いとしこいし師匠とか、若手では千原兄弟とか宮川大輔も出ていたと記憶している。「アメトーーーーク!の殺菌されたような明るいテレビ的なムードは欠片もない。薄暗い場所でひしめき合うように彼らは存在している。

 

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1999年/市川準監督/120分

 

ちなみにメインキャストは当時子役の池脇千鶴、その両親である夫婦漫才師を実際の夫婦でもある沢田研二と田中裕子が演じていて素晴らしい。

そして、本作の脚本は犬童一心監督が手がけており、犬童監督が大阪を舞台に描いた「ジョゼと虎と魚たち」も個人的に大好きな大阪映画のひとつ。

 

 

 

話戻るが、だからして。

このような人々の「鵜飼」がそもそもの吉本の生業なのであって、急に大企業、業界を牽引するリーディングカンパニーです、みたいな顔をしてみても、内実がまったく追いついていなかったんだねというか。

そもそも彼ら自身が反社会的勢力に近い存在なのだ。

 

そんなことを思いながら、かなり知性に不調をきたしている痛々しい会見を見ていた。

彼らは昔と同じように芸人から搾取してきて、これまでみんなそうしてきたのだし、それでまかり通ってきたのだし、ときっと思っているんだろう。

 

人でなし感満載なだけではなくて、芸人さんたちとは比べ物にならぬほど全く腹が据わっていないさまが最高にしょうもなかった。

さめざめ泣いてみたり「コンプライアンスの徹底」と繰り返したりしているのを見て、ちょっと虫酸が走った。

日大アメフト部のコーチ達を思い出した。

 

 

今後のことは分からぬが。

とにもかくにも、長いものに巻かれる人をこれ以上見ることには、もうほとほと倦んでいるという気持ち。

明るい気持ち

選挙から一夜明けて。

色々なことを考えた今回の選挙シーズンだったなあ。

良いことも悪いこともごちゃまぜ状態で、なかなか考えはまとまらない。

 

だけれどまず根本的に思うことは、多くの国が血みどろで戦い勝ち取った民主主義というものを、戦争に負けて簡単に与えられてしまったのが日本であるということ。

ゆえに民主主義とは何か?ということ、その値打ちもたゆまぬ努力の必要もあんまり理解しないで、ふわふわとここまで来たこと。

そのツケを払っているのが現状なんだということを噛み締めているという気持ち。

 

今回、れいわ新選組がこれだけメジャーメディアで黙殺されながらも、太郎ひとりで96万票を集め、ふなごさんと木村さんという重度障害者のふたりを国会に送り出したこと、政党になったことはもちろん素晴らしい。

 

けれど、これが香港だったら?韓国だったら?こんな程度では済まなかったはず。

 

何よりも半数以上の人が意思表示すらしなかった。

 

 

つまりー。

 

これから、1万円は、1万円ではなくなる。1万円札は9千円ということである。

 

どこで雇われて働いても、おおむねその地域の最低賃金で雇われ、不安定だったりブラックだったりするケースも多く、どれだけ長く貢献しても昇給も保証も多分少ない。

 

健康保険、社会保険の税負担は重く、年収の4割〜5割が税金として持って行かれている現状は、継続されるか、より悪くなっていく。年金もしかり。

 

税金の使い道は詳細を明らかにされることはないし、為政者がどれだけ戦闘機を大人買いしようが海外でバラマキしようが近親者や献金団体優先に好き放題に使おうが、個人には異議申し立てすることはできない。それらを問いただすメディアもほぼなくなってしまった。

 

都合の悪い真実は隠され、上辺の景気の良い、威勢の良い強気な言葉が跋扈する。

 

独自の選民意識を持った、ある種ファナティックな人々が、ふんぞり返って偉そうにああしろこうしろ言ったり、努力が足りないと言ったり、自分の力でなんとかしろと言ったりする。

 

他にも、時に開き直ったようにおおっぴらに、時に誰の目にも触れないようにしてこっそり、いろいろなことが変わったり決められたりしていくことだろう。

 

その判断の基準は、自分と自分のステークホルダーにとって儲かり利益になるかどうかが優先順位の一番目。

世の中のためになることも、彼らの権力の維持と金儲けという優先順位に貢献するか、つながっているかどうかで基本は選択されることだろう。

 

こうしたことに対して、意思表示をしなかった人たちは、文句を言う筋合いはないということになる。

別にどちらでも良い、と白紙委任したということなのだから。

 

 

普通に「すごいなあ、何と気前の良い太っ腹なことだ!」と思うが、現在の1:99の図式において、ばっちり99の側にいるにも関わらず、何故か自分を1の側に設定する謎のマインドを持つ人々が少なからずいたりして、闇は深いなあと思う。

 

 

しかし、何故か気持ちは明るい。

 

太郎は衆院選では100人規模で擁立すると宣言してくれたし(にっこり)。

何より、これからも自分はひとりで声を上げた人をひとりにしないために出来ることはしていくし、ひとつひとつ自分が正しいと思うことを暮らしの中でこつこつ考え、継続していくだけ、という肚が決まったからだろうと思う。

 

自由で素敵な新しいアイデアや考え、一人じゃないと思える正直な吐露に接して、きれいで広々した言葉に多く接して、捨てたもんではないなと思えたことに感謝。

 

 

どれだけ厳しく殺伐とした世界が目の前にあっても、

弱く、小さく、柔らかく、面白く、優しいものは目立たないけれど同時にあって、

そういうものを見出して愛で、繋がっていきたいという気持ち。

 

対象を間違わず正しく怒ることは大事だが、変に自分のせいにせず、弱さもしょうもなさもできるだけお互いさまと許し合っていく、あんまり詰めない姿勢を忘れないようにしたい。

二日酔い中

昨日はうだうだと飲み続け、盆踊りの提灯の電気が消えても飲み続け、街灯が消えてもまだ飲み続け、あんまり真っ暗で肝試しみたいになってきたねと言って、モバイルの非常用電気をつけてまだ飲み続けた。

公園に本当に人っ子ひとりいなくなって、日が変わってようやく帰ろうか、となる。

どうしてこのメンツだと、こんなにも帰りがたい、エンドレスな会合になるんであろうか、いつも。

いずれにしても彼女らにはいつも感謝しかない。

 

今朝はさすがに眠く、おっちんを起こすことも出来ず。おっちんはだんなさんに起こされて朝ご飯も食べずに部活へ行ってしまった。

 

 

昨日からテレビは宮迫・亮の会見一色だ。

あーーなんでまた投票前日に!ますます関心低くなっちゃうよーと思ったものの、彼らの語っている話は、良くも悪くも日本の縮図そのもので、「こんな社会でいいの、本当に?」というそれぞれの考えを胸に、多くの人たちが一票を投じてくれたらと思う。

 

皆がこのことについてほんとうに色々なことを言っていて、それぞれにもっともなことと思うけれど、

 

なんといういじめ体質の社会なんだろう。罰しやすい弱い存在に攻撃が集中している。大きな組織にものを言うには、個人はこんなにも身を捨てることと引き換えにせねばならぬのか。

人気者の芸人さんのこんなしおれた姿を見て、子供たちは社会にどんな希望を持てることだろう。

 

だいいち、これって大の大人が泣きじゃくるほどの重罪なのか?

自分の友人に税金を不正に与えて学校を建てて儲けさせてやることよりも、公の歴史や記録を改竄したり破棄したりすることよりも、公共の財産をグローバル企業に売り渡すことよりも、それは重い罪なんだろうか?

 

とにかく、何かが根本的に間違っていると思うし、見ていてただただdiscourageさせられる。

 

いかんいかん!この蒸し暑い薄暗い天気に引きずられてしまっている。二日酔いで頭に靄がかかっている。

冷たいざるそばを茹でて、つるっと美味しく食べるとしよう。

 

 

 

れいわ祭2での森達也さんの言葉 書き起こし

今日から夏休み、らしい。ほんとに〜?というかんじ。天候もじめじめと梅雨っぽいし。

いつも通り5時に起きてお弁当を作る地味な朝。砂肝とピーマンのガーリック炒め、茹でとうもろこし、こんにゃく炒めをかえしで味つけたもの、もずくとたまねぎの味噌汁。あー休みの実感なんてこれっぽっちもないよ。

 

大体、子供たちも忙しすぎて宿題もめっさ多くて、帰省どころではない。どこが休みなんだろうか。

 

今月末の吹奏楽コンクールまでは、下の子おっちんが無休で7時半〜17時半の部活だというので、私も絶賛巻き込まれ中である。

 

 

お天気が怪しいけれど、今晩は海浜公園でお祭り。祭りにかこつけて、祭りに全く興味を示さないメンバーでの飲み会を今年も決行。降らないといいけれど、集合場所を屋根のあるところに指定してくるあたり抜かりない&はなから動く気ない。このところ引きこもり気味だったので、楽しみだな。

 

 

昨日は夕飯作りつつ飲みつつれいわ新選組の「れいわ祭2」をついキャスで流し見ていたんだけど、森達也さんの話が素晴らしかった。

イデオロギーとか政治とかを超えて、人間世界の仕組みのひとつを解き明かす本当に大事な話だと思った。

どうしてれいわ新選組が自分にこうもしっくり来るのかもよく分かった。

 

特に【集団化について】の言及は、とても分かりやすく重要な話。「忖度」という現象について、ここまで端的で分かりやすい解説を聞いたことがない気がする。

 

少し長くなるが、備忘録としておおまかに書き起こしておく。

 

 

【メディアへの言葉】

メディア、テレビ、新聞各局来てます。

これ、いつ報道するんですか?選挙終わってから?何のために?

選挙終わってから記事を見てテレビを見て、人々に悔しい思いをさせたいから?

意味が分からない。

政党要件を満たさないから党首討論にでないのは分かるけど、これニュースバリューないんですか?ニュースバリューあるから今日来てるんじゃないの?

今朝も吉本の芸人さんが契約を解除したってニュースばかりを流している。

これ、公正中立なんですか?

これだけ人々が関心を持っていることをなぜ流さないんですか?

 

(中略)

 

今のメディアは記者じゃない。カメラマン、ディレクター、ジャーナリストじゃない、あなたたちは。

会社員だよ。会社員じゃだめなんです。

伝えたいことを伝えてください。

なんでこれを報道できないんだってプロデューサーとけんかしてください。

一人称単数の主語を取り戻して下さい。

 

【集団化について】

オウムの地下鉄サリン事件から24年、この国はある方向に向かっています。

「集団化」です。

不安と恐怖を刺激されて、みんなでまとまろうという気持ちがとても強くなった。

集団は、集団の中で異質なものを探したくなります。なぜなら異質なものを探した時に、自分たちは多数派になれる。

だからマイノリティーを探し、これを排除しようとする。

こうしてヘイトスピーチが起きます。

 

集団は、集団の外に敵を探したくなります。なぜなら敵を探した時に、自分たちはより強く連帯できるから。

だから以前は仲良かったはずの隣国がどんどん敵になってきた。危険な存在になってきた。

 

集団は、みんなで一緒に動きます。水族館のイワシの群れみたいに、ひとつの生き物のように動く。

つまり、同調圧力が強くなるんです。なぜならその中で皆と同じように動かないと自分が異物になってしまう。だから必死に周りと同じように動く。

 

魚や鳥といった生き物は本能で動きを察知しますが、人間は本能が退化している。

代わりに言葉がある。

つまり、集団化が進むと人は言葉を求めます。リーダーの言葉、号令を。

 

要するに、強いリーダーが欲しくなる。前ならえ、右向け右。そうした指示が欲しくなる。

この時に指示が聞こえないとどうするか?

自分たちで指示を作ってしまいます。

これが、忖度です。

 

なぜ今、こんなにも忖度や同調圧力が強くなっているのか。それは集団化が進んでいるからです。

これは、日本だけの現象ではない。9.11の後の世界は「テロ」というキーワードを燃料にして世界中で集団化が起きています。

 

トランプ、プーチン、周近平、ドゥテルテ。かつてなら独裁政治家の支持率がぐんぐん上がる。

日本も例外ではないです。独裁的に強いことをとにかく上辺だけは言う。そうした政治家がもてはやされる。忖度と同調圧力で求心力が強くなる。

 

 

(中略)

 

組織が一人称単数の主語を失ってしまう。そうした時に人は、大きな過ちを犯します。

なぜか。

集団は、暴走するんです。

周りが皆同じように動くから、暴走しているかどうかも、分からなくなる。

で、集団は、失敗します。断崖絶壁から落ちるかもしれない。

 

人類はこの歴史をずっと繰り返しています。

集団化による失敗なんです。

 

どうずればこの失敗を繰り返さずに済むか?

歴史認識です。過去の失敗を噛み締めること。

 

ところが、今この国では政権を含めて、歴史をきちんと見ようとしない。

振り返らない。過ちを認めない。

その結果として、暴走がどんどん激しくなる。

 

【一人称単数であるということ】

24年間、そうした状況がずっと加速してきました。

地団駄踏んでいた。その時に、山本太郎があらわれた。

 

皆さん、気がつきませんか?

彼、ひとりなんです。

もちろん政党に帰属はしていたけれど、「一議員」じゃないんです。

 

国会で質問する時、強行採決に反対する時、(天皇の)園遊会の時、山本太郎はスタンドプレーをします。周り気にしちゃいないんです。

一人称単数の主語なんです。

だからああいうことができるんです。

 

今回も彼はこういう政党を作ったけれど、これは既存の政党とは違う。

蓮池透さんは、かつて拉致被害者の事務局長です。でも、安倍政権と結託した今の流れはおかしいと声を上げて、彼はパージ(追放)されました。

 

安富歩さん。彼(女)は、男はこうあるべき女はこうあるべき、それで本当にいいんだろうか、もっと自由でいいんじゃないか、そう思って声を上げた。

 

野原さんもそうですね。現役の創価学会員だけれど、公明党にけんかを売った。

 

全員ひとりなんですよ、この党は。

 

人間には社会性がありますから、組織が必要。ひとりでは生きていけない。

でも困るのは、過剰に集団に埋没すること。

埋没することで会社員になってしまう。

 

 

「エイミー・エイミー・エイミー」

しとしと降るだけでなく、薄暗くじめじめと蒸しているので、どうにも気分が下がりがち。昨日は京都でひどいニュースもあった。えいやっと元気を出していかなくちゃ。

 

ひたすらお気楽なものが見たくって、人気コメディエンヌ、エイミー・シューマーが女性なら思わず(こっそり)親近感を覚えずにいられない、フツーかついい具合に振り切れたの女性を演じたコメディ「エイミー・エイミー・エイミー」を見ている。

 

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2015年アメリカ/原題 :Trainwreck/ジャド・アパトー監督/125分

 

この絶妙なぽっちゃり感とミニスカートが現実味を感じさせるなあ〜!普段、映画に出てくるのは小枝のようにスレンダーな女優ばかりで、現実は少しもそんなことはないのだから。

絶妙にアカ抜けない非常にありがち感のあるファッションも適当でなく、結構再現性に神経使ってるというか、そこからコメディというか。言動のリアリティーもさることながら、エイミーの存在だけで一段説得力を上げてくるんだよなあ(笑)。

 

女性にとって、みんな黙って澄ましているけど、実はめっちゃあるある!というポイントを突いてくる、まるで彼女のネタをコントにしたようなシーンがところどころあると思ったら、脚本もエイミー自身が執筆したということでなるほど。

ちなみに監督は振り切れたコメディの監督やプロデュースで知られるジャド・アパトーだから、イケイケドンドンにならないはずがないという。

 

なんだろな、けして良い人を演じている訳ではないのにみんなが彼女に自然な好感を持ってしまう何かがある。

でも、身近にもこういう人いる。

「好きなことを言い散らかしてるんだけど、頭の回転が速くて賢いから切り返しにウィットがあって、周囲は思わず笑顔になる。気をつかっていないわけではなく、むしろすごく気がつくタイプだから、いろんな大変さはあるんだろうけど、皆に好かれていてうらやましいな」という感じの人。

なぜか個人的に近しくなることはあまりないけど、遠くからいいなーと笑顔で見ているタイプだ。

 

気を入れて見るタイプの作品じゃないから、家事の合間にガハハと笑いながら見ていて、用事が出来たらパチッと消して、気楽に見ている最中。

 

 

しばらく前に見た彼女のスタンダップも楽しかった。

 

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2019年アメリカ/エイミー・シューマー監督/60分/Netflix公開2019年3月19日〜

 

時々あまりのおゲレツさにまじか!と度肝を抜かれつつ、女性ならよくぞ言ってくれました!と拍手したくなってしまうところも多々あって。

妊娠中の大きなお腹でのステージゆえ、妊婦あるあるという、さらに憚られる分野に切り込んでいて、なかなかに笑えた。

 

彼女のネタはフェミニズム傾向が強めなのも特徴。

個人的にはミソジニーに関してはあんまり深く内面化されているゆえに無自覚なポイントも多々ある。だからエイミーのあけすけな指摘で、はっと目を開かされる気持ちになったりもする。

私は40代だから世代的なこともあろうが、往々にして日本の感性はまだまだアメリカほどにはオープンマインドとは言えないだろうし、そういう意識、常識感の違いを感じるのも新鮮で面白い。

 

さて、これからちょっと仕事をして、午後はおでかけ。

「ブラジル 消えゆく民主主義」

ふううー、政治のシーズンが続いていて、いささか食傷気味ではあるのだけど、でも今週の関心ごとはやはり政治的なことになっちゃうんだろうな。

とにもかくにも、太郎たちがんばれー!

 

昨夜はNetflixでブラジルのごりごりのドキュメンタリーを見る。

火曜日のたまむすびの「アメリカ流れ者」で町山智浩さんが紹介していて、「えっブラジルってそんなことになってるの??」とかなり驚き、これは見なくっちゃと思った次第。

 

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2019年ブラジル/ペトラ・コスタ監督/113分/Netflix公開2019年6月19日〜

 

ブラジルオリンピックの時、「不正をした大統領が罷免されたので今回のオリンピックはホスト国のリーダーが不在となります」というような簡単なニュースの解説を聞いて、「へえ、悪い政治家がいたんだね」くらいに思っていたのだけど、その内実は驚くべきものだった。これまで何一つ知らなかった。

 

ブラジルの現大統領は、極右政治家のボルソナーロであることはさすがに知っていた。

ひょんなことからこの国の舵取りをすることになった人物で、トランプと仲良しで、差別的だったり下品だったりする言動でたびたび物議を醸している、人格者とはほど遠い人物。

 

彼が大統領になったのは、世界中で見られる極右勢力の台頭のひとつのあらわれかと思っていたのだけど、この作品を見て彼は繰り上げ当選で大統領になった奇跡の棚ボタ大統領だったのか、と知る。

 

たった2期前は長い軍事独裁政権を脱して初めて労働者階級の大統領ルーラが生まれ、彼の素晴らしい政策で2000万人の貧困層ベーシックインカムが与えられ、ブラジルは建国史上未曾有の好景気に沸いていた。

たくさんの血を流して大勢の人々が戦い勝ち取った、待ちに待った民主主義の世の中だった。

それがたった10年あまりで終わりを告げてしまった。

 

既得権益を奪われた資本家や白人の世襲政治家といったかつての支配者層の陰謀によって、あたかも魔女狩りのような熱に浮かされた狂騒のうちに、やっとのことで築いた民主主義がもろく崩れ去って行くさまが、深い悲しみと共に詳細に描かれている。

 

作品を見ていると、ある種の人々は、自分の権力と金とプライドのためならほんとうに何だってやるのだ、と空恐ろしい気持ちになる。

彼らにとっては、自分以外の人がどれだけ死のうと飢えようと困ろうと、地球が壊されようと、それは「致し方のないこと」なのだ。

そして、誰しも一旦陰謀に巻き込まれてしまったら、どれだけ正当であろうとも、冷静で穏便な語りかけや対話は全く機能しなくなり、暴力的な場所に一気に放り込まれてしまう。

 

政治システムの制度設計というものは、人間の邪悪さと愚かしさを踏まえたうえで、これらが暴走した時にブレーキとなることを想定して作られなければならないといつも思うことだが改めて強く感じる。

 

性善説に基づいて設計されている日本の法律は、近年の恥を知らない人々にはたびたび機能しないという事態を呈している。今日も記録は捨てまくられている。

ブラジルもしかり。だって検事がその後判事になって同じ人が裁いちゃうのだもの。性善説を超えてもうめちゃくちゃだ。検事が気に入らない人は誰でも起訴して有罪に出来てしまうのだから。

 

だからこそ、韓国の文大統領やイギリスのキャメロン首相のように、自分がトップになった時に権力に酔うのではなく、自ら権力を制限するルールを作る人は立派だと思う。

 

 

もうひとつ見ていてつくづく怖かったのは、メディアのさま。人々の正常な判断能力を奪い盲目的な狂ったお祭り騒ぎの火に油を注いだのは、何においてもメディアだった。

 

メディアのによるメージの刷り込み。悪人顔にデフォルメしたルーラやジウマの醜悪な似顔絵、逆に盗聴までする検察官モロはヒーローキャラクターに模して描かれた。

紋切り型のコピー、根拠のない嘘も連呼することで本当のようになっていく。

 

かくして、ルーラの施策で月に30ドルの支給を受けて暮らしを立て直し、一人前の職も得たかつての貧困層が、そのことをあっさりと忘れ、歯を剥き出して労働党をぶっ壊せとデモ行進をするようになる。

 

遠い外側から見ていると、「なんて大衆とは愚かなんだろう。まったく自業自得ではないか」という思いに思わず駆られる。

 

しかし、今の日本は海外の人から見たらブラジルと大差ない。

与党の昨日の支持率は45%だそう。これだけ内向きできなくさい方向に進み、弱者を踏みつけ強者にこびへつらう格好悪いリーダーが率いる政権を、半数近い人が支持している。

自業自得と言われても仕方がない。

 

しかし同時に、メディアが言うことを正しいと思うのは間違った思い込みだとみんながはっきり認識する必要がある。

株式会社と一緒で、スポンサーのいるメディアにおいては、お金が儲かるかどうかが判断基準の最上位に来る。

メディア自体に倫理も善悪もない。スポンサーにとって都合の悪いものには触れず、都合の良いものが醸成されていく。

この身もふたもない現実をしっかり踏まえることがまず前提にならなくちゃ。

 

この作品を見るとよく分かるけれど、メディアは権力の暴走にむしろ大きく加担している。

 

与党の暴走を止められないのは野党がだらしがないから、とメディアは言う。

どの口が、という思い。

盲信すること、疑うこと

おとといのことになるけれど、今年のウィンブルドンの決勝は名実共にすんごいものだった。

 

共にゾーン状態にある天才同士が、常人には計り知れない天上レベルの研ぎ澄まされたやりとりを繰り広げていた。

人間離れしているとしか言いようがなく、讃えるという域をもはや超えているというかね。

今目の前で見ているものは一体何なんだろう、とぽかーんと口を開けて見入るばかりだった。

 

どこまでも集中力途切れることなく、4時間57分。まじか、どこまで続くのや。

最終的にはジョコが勝ったわけだけれど、フェデラーは当然めちゃくちゃ悔しかったろうけど、もう勝敗はどうでも良いという域にまでいっていたなと思う。

 

渡辺京二先生が言っていた通り「あまりにも突出した才能というのはむしろ奇形なのだ」。

彼らも最大限の努力をしていることに異を唱えるつもりは少しもないけれど、彼らの存在が努力とか精進の先にあるものではないんだということは、良くも悪くも真実だ。

 

プロスポーツの世界は、ある種のサーカスなんだなあとつくづくと思ったことでありました。

 

 

そんなプロスポーツ選手を、あんまりにもヒーロー視する風潮って、以前から馴染めなかった。

語弊を怖れずに言えば、スポーツとは本人がやりたくてやっているある種の遊戯であるのに、時にあまりにも偉人みたいに持ち上げたりするのってどうなんじゃろう?

私は何だか不思議と思っていた。

 

プロリーグを持ち、巨大なマーケットを形成しているメジャー競技とそうでない競技でヒエラルキーがあるということにも大きな矛盾を感じてしまう。

競技自体の値打ちが、サッカーやテニスが一番だってことはないはず。でもどの競技も同等にリスペクトされているとはとても言いがたい。

成功すれば大金持ちになれて、大きな名誉も得られる競技には競技人口も集中する。ゆえに突出した才能もその競技に含まれることになりがちだ。

 

プロスポーツはサーカスだからそれで良いのであるが、だからといって彼らが人間的に優れているということとは全く別物のはずだけれど、往々にしてそこがごっちゃになりがちだ。

 

もちろん私もスポーツを見るのは好きで、いろんな人のファンである。人間的に素敵だなーと思う人もたくさんいる。

 

まあ、マラドーナみたいな反面教師もいるし、そんなこた分かってるし、と言われてしまいそうだけれど、子供のロールモデルというと何かっていうとスポーツ選手ってという発想になりがちよね、とは思う。

 

 

前置きが長くなったが、為末大さんのブログが大変面白かったんであった。

何かをきわめるほどに追究した人だけが持ち得る、発見に満ちた説得力のある文章で、はあ〜ジョコヴィッチもまさにそうなんやろうなあ〜と読みつつうなずいていた。

 

面白いのは、彼の知見がスポーツの分野だけにとどまらず、精神的に不安になったり迷いが生じた人が何かに傾倒し(つまり自分を明け渡し)、盲信してしまう心理について、かなり詳細に整理して論じたものになっているということだった。

 

何かをきわめてトップに近くなった時、努力やロジックを超えた存在に簡単に負かされてしまったり、まじめに最大限の努力をし、正しい行いを積み上げているはずなのに低迷したり結果が出せなくなったりして、もうどうすれば良いのか分からなくなる。

 

「答えのない状態」に耐えられない。

 

どんなジャンルにおいても、「競争人生」においては、どこかでぶち当たる逃れがたいポイントなのだろうと思う。

だって、誰にも万能な絶対に一番になれるような魔法のような研鑽法なんて、どの分野においてもあるわけがないからだ。

 

その「競争人生」というゲームのプレイヤーとして生きていくのが果たして人として幸せかかということについてはまた別の話になるが、とにもかくにもアスリートというのは、ドーピングみたいなことはあるにせよ、基本は清々しいくらいに問答無用の勝ち負けそれが全てだ、の土俵で切磋琢磨しあう存在である。

 

そこでもがき切って、あらゆる試行錯誤を繰り返しながら到達したひとつの知見というものが示されているという点で、とても興味深い文章であると思う。

 

彼は、アスリートとしてのパフォーマンスを最大化するには、競技者としての「迷わず信じてやりきる」姿勢と、研究者としての「独善を疑い、多面的に科学的に論理を構築する」客観性と判断のバランスが重要だと言っている。競技者の姿勢が勝っても、研究者の冷静や執着が勝ってもどちらにも一長一短があるという。

 

そのうえで最後に彼はこのように書いている。

スポーツの現場では短期では狂気は正しさを凌駕する。しかし狂気の人間は自分の姿が見えていない。どこにいるのかどこに向かっているのかもさほどわかっていない。思い込みが強いタイプの選手は変に客観的になるより、コーチ選びに神経を使い、一度選んだら信じ込んで突っ走るというやり方がいいと思う。なれないものになろうとするより、できる人間に外注した方が効率がいい。

為末大ブログ 私のパフォーマンス理論 vol.28 -トレーニングとの距離について-)

 

合理的な人だなあ。外注(笑)

自分が「絶対に!正しい!」と心から信じ込んでいることに裏切られたことがあり、自分の正しさを常に疑う深い思索を得るにいたったことは、相当スポーツをきわめた人ゆえの得難い経験値だと思う。

 

それは素晴らしいことだけど、彼が有名な元トップアスリート「だから」そのような経験値を得られているのではなくって、様々な分野でそれぞれにきわめた人の滋養深い知見というものがあるはずだ、ということはいつも忘れないでいたい。